メッセージ · 2024/12/15
 アドヴェント第3週を迎えました。アドヴェントは、ラテン語で「到来」を意味する言葉が語源となっています。日本語では、主がご降誕されたクリスマスを待ち望みつつ備える期間として、「待降節」と命名されました。 今朝は、神を待ち望むということについて考えたいと願っています。 私は主を待ち望む アッシリアにより頼むのか、それとも主により頼むのかという神からの迫りの中で、ユダの人々やアハズ王に預言のことば(8:12-16)が与えられました。今朝のみことばは、その預言に対してイザヤが語った信仰告白と言えます。 それは、たとえ主が御顔を隠しておられても待ち望む信仰でした。 生ける真の神として 19節では霊媒や口寄せに頼ることが戒められています。しかし、その中心メッセージは、そのような怪しく空しいものではなく、「生ける真の神に尋ねよ」という点にあります。キリスト者である私たちは、神を求め待ち望んでいることでしょう。しかし、「今も生きて働いておられる真の神様」として、待ち望んでいるかということについて、改めて考えてみたいところです。 神への渇き 人の満たされない思い、餓え渇きは、根源的なところで神へ

メッセージ · 2024/12/08
マリアがみ使いから救い主を身ごもるというお告げを受け、その後エリサベツを訪れます。そこでのマリアの賛美が記されています。今日の箇所から神にあって幸いな人の特徴を学ぶことが出来ます。 1)急いで行った・・マリアはみ使いからのお告げを聞くとエリサベツのもとに急いで出かけました。神様の恵みの具体的な印を示されたなら、神様が示して下さること、その印を、急いで出かけて行ってこの目で見る、そういう積極的な姿勢を持つことが、信仰においてはとても大切です。 2)信仰による共鳴し合える喜び・・ マリアとエリサベツは両者ともに自らの立場や社会通念を超えて、み使いによって語られた神のことばを信仰によって理解し、受け止め、従っています。信仰によって、彼女らは二人共、「幸いな人」となっているのです。キリスト者にはこのように神様の恵みを分かち合うことが出来、信仰によって共鳴し合える喜びがあります。 3)主をあがめるために自らが小さくなる・・ 46節以降にマリアの賛歌が出てきます。この賛歌は「マグニフィカート」と呼ばれています。その意味は「大きくする」ということです。すでに「主は大いなる方」ですから人間の力で

メッセージ · 2024/12/01
今日からクリスマスを待ち望むアドベント(待降節)が始まりました。主イエス・キリストの誕生、つまりクリスマスの出来事は本日のルカ1章26節から始まります。この箇所は主イエスの母となったマリアに、御使いが、「あなたはイエスの母となる」と告げた、いわゆる「受胎告知」の場面です。クリスマスにはたいてい「ページェント」と呼ばれる「聖誕劇」、つまりイエス・キリストの誕生の物語を描く劇をしますが、この箇所はその中で必ず上演される大事なシーンです。 主イエスを生む母として選ばれ、用いられたのは、ガリラヤのナザレに住むマリアというおとめでした。神様は、この、平凡な一人の娘を、救い主イエス・キリストの母として選び、お用いになりました。 御使いからのお告げを聞いたマリアは最初、戸惑いと恐れ、不安を覚えます。しかし、同じ御使いは親戚のエリサベツにも懐妊の奇跡を起こし、それを目の当たりにしたマリアは御使いの「神にとって不可能なことは何もありません」のことばを信仰をもって受け入れたのです。その意味をマリアは一般的に神様は何でもお出来になるということではなく、神のことばは必ず実現するというように受け止めました。

メッセージ · 2024/11/24
私たちの信じている聖書の神はどのようなお方でしょうか。 神について語るのにいくら言葉があっても足りません。 しかし、聖書は「神は愛です。」(ヨハネ第一4:16) と言って、神をたったひとこと、「愛」という言葉で表しています。 神の国とは愛なる神様がご支配されるところですから神の国は愛で満ち満ちているところとなります。 そのような愛である神様を私たちはどのようにしたら知ることが出来るのでしょうか?  神は、繰り返し、繰り返し、「わたしはあなたを愛している」言われます。 神が私たちを愛しておられるのに、なぜ私たちは神の愛や平安を体験することができないのでしょうか?  それは、私たちが神にたいして罪を犯したからです。 罪は、人間にとって一番やっかいな問題ですが、それは、神にとっても簡単な問題ではありません。 もし、神がすべての罪人を滅ぼしてしまわれれば、神の私たちへの愛は消えてしまいます。 もし、神が罪を見逃せば、それは神の聖さと正しさを損ない、世界は最悪の場所になります。 神が人間をコントロールして罪を犯させないようにしたら、人間は自由な存在でなくなり、人間が人間でなくなってしまいます。

メッセージ · 2024/11/17
イエス・キリストが教会に与えてくださったメッセージは、世界の救いにかかわる重大事であり、私たちの永遠の命にかかわる真剣なものですから、教会はそれを正しく伝えていく責任があります。 メッセージを伝える方法は、時代とともに変わっていくでしょうが、伝えられるメッセージの内容は決して変わってはなりません。その変わることのないメッセージとは何でしょうか。 今朝の聖書の箇所は、ペンテコステにペテロが語ったことばの一部分ですが、そこに 「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」とあります。 これはペテロが自分で考えて言ったことばではありません。 キリストが言い残されたとおりのことばを語っています。(ルカ24:46〜47参照) 罪の赦し、悔い改め、キリストを信じて洗礼を受けること。 この3つのことをキリストは教会に託されました。 もう少し説明しますと 1)十字架と復活のメッセージ・・十字架は聖書のメッセージの中心です。キリストは私たちの罪を背負い、私たちの身代わりに神の刑罰を受けてくださいました。キリス

メッセージ · 2024/11/10
今日の説教の箇所はレオナルド・ダビンチが描いた「最後の晩餐」の場面です。この時の食事は「過越の食事」と言い、ユダヤ人にとっては神によって選ばれた民であることを自覚する意義深い食事でした。料理のメニューにはエジプト脱出による苦役からの解放、過越に見る災いの回避と守り等が反映され、まとめて言うなら過越の食事はイスラエルにもたらされた神の救いのみわざを表しています。 1)新しい契約の最初の晩餐 この過越の食事を主イエスは弟子たちととりながら旧約における救いのしるしである過越の食事と新約におけるキリストの十字架による救いを重ね合わせて教えられました。「古い契約」に対して「新しい契約」を定めて下さったのです。どのようにして、新しい契約を打ちたててくださったのでしょうか。それは、ご自分のからだを十字架の上にささげること、及びご自分の血を流すことによってです。主イエスは十字架の上で罪びとのために身代わりの死を遂げ、ご自分を犠牲として捧げることによってその罪を赦し、きよめてくださったのです。 2)聖餐とは十字架と復活による救い しかし、十字架ですべてが終わったのではありません。キリストは三日目によ

メッセージ · 2024/11/03
今日の聖書箇所には二つの話が語られています。最初は、主イエスが安息日にある会堂で病気の一人の女性を癒したという奇跡の話、もう一つはからし種とパン種のたとえ話です。別々の話のように見えますが2つの話にはとても関連性があります。 <神の国のたとえーからし種とパン種> 主イエスはここで、「神の国」を「からし種」と「パン種」にたとえておられます。からし種は、粉のように小さな種です。あるのかないのか分からないよう種が、やがて鳥が巣を作れるぐらい大きなものとなることが言われ、パン種も同様にわずかなものではあってもそれが粉に混ぜ練り合わされる時に大きく美味しいパンに変えられてゆくことが言われています。神の国に属する者、神の救いを受けた者は信仰によって受け入れたキリストのみことばが働いて大きな変化と成長をもたらすことが語られています。 <安息日と主日礼拝> 10節以下に安息日に主イエスが会堂で教えておられた時、そこにいた18年もの間、病で苦しんでいた女性が主イエスによって癒されたのです。会堂司は主イエスがその女性を癒されたのは安息日であることを強く批判しました。しかし、主イエスは反論されただけでな

メッセージ · 2024/10/27
1)神の国を相続するとは・・パウロは、イエス・キリストを信じる信仰者たち、つまり私たちが、この世の終わりの日、主イエスの再臨の時に、復活して、新しいからだ、霊のからだを与えられるという、希望の約束について語ります。 さらに御霊のからだを与えられた者は神の国に入られるばかりか、神の国を相続する者となることが言われています。 それは救いの完成とも言うことが出来ます。 神の国を相続する者というのは神の国に入られているという恵みをはるかに超えて、神の国に属するものをすべて受け継ぐということです。 復活によって御霊のからだとなる者には想像を遥かに超える神の恵みが用意されているのです。 2)復活と奥義・・ パウロはキリストの十字架と復活が私のためであると信じる者は世の終わりにキリストがもう一度来られる時に復活し、御霊のからだに変えられるという奥義を語ります。 復活とは信仰者の努力目標ではありません。 また神様の救いの恵みの最後のつけ足し、あるいはおまけでもありません。 復活こそ、私たちが神の国を受け継ぐために、つまり救いの完成にあずかるために、必要不可欠なものなのです。 それをキリスト信仰によっ

メッセージ · 2024/10/13
1)罪びとのための救い主・・ イエスは子どもを愛されました。 それは子どもに罪は無いからということではありません。 子どもは生まれつき、わがままで、自己中心です。 ただ大きな一つの特徴は子どもは素直に罪を認め、「ごめんなさい」と言うことです。 イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」ルカ5:32と言われました。 自分の罪を知り、それを認め、心から悔い改める人のところに、主イエスは来てくださいます。 イエスが子どもを愛し、受け入れたことが聖書に数多くしるされているのは、イエスが悔改めてイエスに近づく者を決してお見捨てにならないことを教えるためなのです。 2) 悔い改めと神の国・・ イエスは、悔い改める者に「神の国」を約束されました。 では、聖書が言う「神の国」とはどのようなものなのでしょうか。 まず、「神の国」は将来のもの、世の終りにやってくる、神の永遠の支配だと教えています。 「神の国はまだ先のこと」なのです。 しかし、「神の国」に入るという約束の希望が確かであるからこそ、苦しみの中でもくじけずに前進できるのです。 聖書はつぎに、

メッセージ · 2024/10/06
「まず神の国と神の義を求めなさい。」とは、よく知られた言葉ですが、この言葉にはどんな意味があるのでしょうか。 1)神の国・・ 「神の国」とは、神のご支配のことです。支配ということばに抵抗があるかもしれませんが「管理する」「コントロールする」と考えると被造物すべてのものがうまく動いているのは神が管理していて下さるからだと言えます。聖書は神が私を支配して下さらないなら、罪と悪が私を支配することになると教えています。私たちは生まれながら神のご支配を、神の国を求めているのです。神の国は、人間の力でたぐり寄せることができるものではありませんし、その必要もありません。神の国は、それ自体の力をもってわたしたちのところにすでに押し寄せてきています。神の国に入るのに必要なのは、神の国を謙虚に受け入れることだけです。 2)神の義・・ 「神の義」とは、神の前での正しさのことです。その正しさとは完全な正しさです。神の前に正しくない人は、神の国に入ることが出来ません。そして「義人はいない、一人もいない」ローマ3:10わけですから誰一人入ることは出来ません。では私たちが義とされる道はあるのでしょうか?ありま

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