メッセージ

メッセージ · 2025/04/06
1.物語の概要 神様はアブラハムに、最愛の息子イサクを全焼のささげ物として献げるよう命じます。理不尽な命令にもかかわらず、アブラハムは従い、イサクを献げようとしますが、神様の介入により思いとどまりました。神様はアブラハムのこの信仰に祝福を与えられました。この箇所から、私たちも学ぶべきことがあると語られてきました。 2.現代的課題 ところが、現代の感覚からすると、父親が息子を殺そうとするこの物語が問題視され、「そんな神に従う意味があるのか」という疑問が挟まれるようになりました。実際に、若者の中にはその命令や信仰に納得できないという声を聞いたことがあります。現代において、この物語を語ることの難しさが浮き彫りにされた経験でした。しかし、今の時代の考え方だけに立ってこの箇所を読むなら、大切な聖書のメッセージを取りこぼしてしまうでしょう。 3.アブラハムではなく アブラハムは確かに信仰の偉人ですが、この箇所の中心はアブラハムの信仰を称えることにあるのではありません。アブラハムも失敗を繰り返す人間でしたが、神はそんな彼にも変わらず伴い、導かれました。大切なのは、アブラハムではなく、神様がどのよ

メッセージ · 2025/03/30
4月は、蛍池聖書教会だけでなく社会においても大きな変化のある時期です。 今日は旧約聖書のヨシュア記が取り上げられていますがイスラエルにとっても約束の地を前にしてリーダーがモーセからヨシュアへとバトンタッチされてゆく時でもありました。 このヨシュアに神は語られたのです。 1)ヨシュアの恐れ・・ この時、ヨシュアは大きな不安と恐れを心にいただいていました。 一つはこれから迎える戦いでした。 今までは防戦的であったものがこれからは攻撃的ものになるということでした。 もう一つは過去の失敗の経験でした。 そしてそれらのものが合わさって人々が再び不信仰や不従順にならないかとの恐れがあったのです。 2)ヨシュアへの励まし・・ それで神は、ヨシュアに、 「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない」 と語り、励ましを与えられました。 大切なことは強さ、雄々しさは神が与えてくださるものであり、自分で努力して達成するものではないということです。 3)ヨシュアへの約束・・ 主なる神は、ヨシュアが直面していた「恐れ」や「おののき」に対して、主ご自身の力を与え、勇気を授けてください

メッセージ · 2025/03/23
1)ソロモンの知恵・・ 知恵に満ちたソロモンは、その時代のどの賢者たちの知恵に優っていて、それはまわりの国々に評判となって聞こえたほどでした。神はソロモンに、誰も及ばないような知恵を与えました。その彼が人生について語ったのがこの伝道者の書です。 2)人生の空しさ・・ 伝道者の書というと誰もが思い浮かべるのは「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」(1:2)という言葉です。この書を通じてソロモンは人生はいかなる領域においても空しいものであることを指摘します。また逆説的な意味で空しく儚いものであるからこそ「今を大切にし、身近な人々を大切にし、大きな望みを抱かず、何事もほどほどにしなさい」という、処世訓があるように思えます。しかし、そういったものでは人生から空しさを取り除くことは出来ません。もっと根本的な解決が必要です。 3)生きることの意味・・ 伝道者は12章で結論を語ります。それは「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」(12:1)ということです。「覚える」とは「知る」ことであり、「神を人生に、また生活の中心に据える」ということです。「創造者を覚える」ことは「神を恐れる」

メッセージ · 2025/03/16
アブラハムが執り成しの祈りをした後、御使いたちはソドムの町を訪れました。 そこではアブラハムの甥ロトが、町の門に座っていました。 彼はロトの町で裁判官のような役割を果たしていたことを示しています。 ソドムの人々 ロトは御使いたちをもてなし家に泊まるよう勧めました。 これは町の治安の悪さを知っていたためでした。 ソドムの人々はロトの家を取り囲み、旅人たちを引き渡すように迫ります。 彼らの行動は、神を愛し隣人を愛するという聖書の教えとは反対のものでした。 ロトの行動と評価 ロトはソドムの人々の悪を嘆いていました。 しかし、自分の娘を犠牲にしようとするなど、彼自身も完全ではありませんでした。 それでも、聖書はロトを「正しい人」と評価しています(Ⅱペテロ2:8)。 ロトが「正しい人」と評価されているのは、彼の行いではありません。 ソドムの町の人々の行いに心を痛めていた彼の心の正しさの故でした。 その心は神様の御心にかなっていました。 なぜなら、ソドムの現状を誰よりも悲しみ、心を痛めておられるのは、神様ご自身であったからです。 ロトは、この世に生きるキリスト者や教会の型であると言えます。 私

メッセージ · 2025/03/09
「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。 だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3:20 とあります。 「戸を開けて、一緒に食事をしよう」。 そのために、主イエスは私たちの扉、「心の扉」と言ってもよいかもしれません、その扉を主がたたいていてくださっているのです。 それに答えて戸を開けるならば、わたしは喜んで、すぐに中に入ろう、そして一緒に食事をしようと、主イエスは言われるのです。 多くの人が、この言葉を聖餐の食卓との関わりで理解してきましたし、今もしています。 聖餐とは食卓の交わりであり、一緒に食事をすることを、誰よりも切実に望んでおられるのは主イエス・キリストなのです。 主イエスとの豊かな交わりを体験しておられるでしょうか? しかし、ラオディキアの教会の人々は表面的な豊かさゆえに、内面的には自らの乏しさ、貧しさに気づかずにいたのです。 罪びととしての実体に気づかないことが心の扉を叩き続ける主イエスを無視し、ひいては自らが神になったがごとく生きていたのです。 そんな状態にいることに対し、主

メッセージ · 2025/02/23
キリストの自己紹介・・ スミルナの教会の現状や問題点を指摘する前に主イエスは「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方」と自己紹介されます。 教会はキリストのからだであり、キリストをかしらとして成り立っているものですから全ての教会の働きはキリストを表わすものへとつながっていかなければならないからです。 キリストからの状況理解の程・・・ スミルナの教会の現状が指摘されます。 スミルナの教会が苦難や貧しさ、その他多くの試練の中に置かれていたことが語られます。特にそれらのことを「わたしは・・知っている」と言われます。 これは知識として知っているということではなく同じ体験をした者として知っているということです。 正に主イエスの生涯自体、苦難と貧しさを体験し、人から嘲られ、罵られたので分かるということです。 主イエスが知らない私達の苦難は何もありません。 キリストからの励ましと約束・・・ 最後に主イエスからの励ましのことばを見ると最も重要なことばは「忠実でありなさい」ということです。 スミルナの教会があった時代も、そして今もクリスチャンにとっては信仰者として生きることには多くの戦いや

メッセージ · 2025/02/16
 アブラムが99歳の時、神様からの語り掛けがありました。それは「私が示す地へ行きなさい」という神様の言葉を信じて故郷を旅立ってから24年目の出来事でした。その24年間、アブラムは主とともに歩んでいました。 わたしは全能の神である  主はアブラムに、まず「わたしは全能の神である」と言われました。主とともに歩んだ24年間は、アブラムが、主こそ全能の神であることを知り、経験するときでした。アブラムには過ちもありました。しかし、主に信頼して生きることを心に決めたアブラムを、主は祝福されました。 あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ  今朝のみことばにおいて、神様がアブラムに求めているのは、「わたしの前を歩み、全き者であれ」ということのみです。全き者とは、完全無欠で人の助けを必要としない者ではありません。主は、人を一人で完結する存在としては造られませんでした。全き者であるということは、主の前に歩むことと切り離せないことです。 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる  契約の内容が4-8節で詳しく語られています。そこにはアブラムがしなければならないことは含まれていません。こ

メッセージ · 2025/02/09
黙示録にはイエス・キリストのことが様々に記されています。 1)イエス・キリストは「栄光の主」として描かれています。 燭台とは教会のことですがそれはキリストの栄光を人々に表わすのでそう呼ばれます。その燭台が「金の」燭台と言われているのは、教会が、キリストの血によってあがなわれた、かけがえのないもの、神の目に尊ばれているものであることを表わしています。初代教会においては教会の礼拝、また説教の第一の目的は聞く人にキリストの栄光を示すことでした。教会は外からは迫害が、内にあっては分裂等諸問題と戦ってきましたが人々の心がキリストの栄光に向かうことによって真の解決へと導かれてきました。イエスは「栄光の主」です。 2)イエス・キリストは「愛の主」として描かれています。 キリストは王の王、主の主であって、あらゆるものに、「こうしなさい」と命じることのできるお方です。主が助けてくださらなければ私たちは何一つ成し遂げることができません。そうであるのに、主は、教会を愛して、私たちのしたことを褒めてくださいます。その上で主は「あなたは初めの愛から離れてしまった」と叱責されました。働きにおいては申し分ない

メッセージ · 2025/02/02
今朝の箇所は、天地創造の物語のクライマックスとして、人間が「神のかたち」という特別な存在として造られたことを記しています。 「神のかたち」① 造られた目的を持つ存在 「神のかたち」ということばは、人間の様々な側面を表現しています。まず、第一に、人は神から目的を与えられた存在であるということです。神様は人間に世界を支配し治める使命を託し、その役割を果たすために「神のかたち」として造られました。この使命は天地創造の完成に関わるもので、神の創造の秩序の中で重要な意味を持っています。 「神のかたち」② 他者との交わりに生きる存在  次に、人間は他者との交わりの中で生きる存在として「神のかたち」に造られています。人が「神のかたち」として男と女に創造されたのは(27節)、互いに助け合い、協力して神の使命を果たすためです。それが、神様が期待しておられた人の本来の姿です。これは三位一体の神のあり方とも関連しています。 「神のかたち」③ 神様に応答する霊的な存在 さらに、人間は、神との交わりを持つことができる霊的存在として創造されました。肉体だけの存在ではなく、神様から「いのちの息」を吹き込ま

メッセージ · 2025/01/26
「キリストをかしらとして」とは今年の教会の指針です。キリストが教会の「かしら」であり、教会がキリストの「からだ」あるとは、どういうことなのでしょうか。 1)かしらとしてキリストは教会の代表です。・・キリストが教会の代表であるというのは、キリストが教会に属する者たちの代表となって、教会と教会に属する者を守っていてくださるということを表しています。 聖書は、私たちにはふたりの代表者がいると教えています。アダムとキリストです。アダムは人類の代表者として失敗しました。神は、アダムにかわる、もうひとりの代表者を立ててくださいました。それが、イエス・キリストです。イエス・キリストはご自分を犠牲にされた「かしら」です。キリストは私達のかしらとなってくださり、私達に罪のゆるしと救いを与えてくださいました。 2) かしらとしてキリストはからだなる教会とつながっています。・・聖書は教会をからだのようなものであるとは言っていません。教会は実際にキリストの霊的なからだです。教会はキリストを信じる者たちが集まって作り出した団体や組織ではなく、かしらであるキリストから出てきたものです。教会は、キリストによっ

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