平安中学の恵さんと誠君は同じクラスです。
中間テストがあり国語の成績がどちらも同じ60点でした。
ところが成績が同じであるにも関わらず二人の対応が全く正反対なのです。
恵みさんは安堵に満ちた顔つきで友達とニコニコ顔でおしゃべりをしています。
一方の、誠君はいかにも世の終りといった暗い表情で落ち込んだ様子が伺えます。
どうして同じ点数であるにも関わらずこのような違いが出るのでしょうか?
よく考えますとその点数を取ったのは確かに本人なのですがそこから様々な感情が出てくるためにはその点数を評価したり、判定したりするもう一人の自分がいるということになります。
例えば上記の誠君の場合、60点を取った自分は現実の自分と言うことができますし、それに対応して落ち込みや嫌な感情が起こっているわけですから誠君の中に現実の自分を自動的に評価あるいは判定づける理想の自分がいると言えます。
理想の自分は「100点取るべきだ!」あるいは「60点なんて取ったら駄目な人間だ」というメッセージを発し続けているのでしょうか。
このメッセージが生き方や価値観に関わることになってくると大変です。
「クリスチャンはこうあるべきだ!」「教会はこうあらねばならない!」こういった理想の自分が発することばは理想ですから正しかったり、完全であるようなことばになりがちです。
ただこれは理想ですから完全にやり遂げたり、仕上げたりは残念ながら出来ないのです。
にも関わらず強く推し進めていくと理想の自分が現実の自分を評価し、責め続けてしまい、心の中に不安、悲しみ、寂しさといった否定的な感情が次々とやってきます。
ところでアダムとエバによって罪が人間にもたらされたわけですがその罪の特徴の一つは善悪の知識が身についたということです。
その意味は我々が賢くなったということではなく、善悪の知識が生まれながらにして誰にでもあるということです。
すると「理想の自分」は善となり、「現実の自分」は悪ということになるのです。
そして理想の自分は現実の自分を責め立てるのです。
圧倒的に恵みさんのように喜ばしい感情が出て来るよりは誠君のように否定的な感情が出てくる場合の方が多いと思われます。
私達にとっては内側の理想の自分とつながるよりも、イエス・キリストとつながることの方がより大切なことと思えます。
何故なら私の全てをご存知の主が放つ評価に生きることが重要だからです。
そして創造主なる神様は「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(聖書)とおっしゃっているのです。
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