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「聖さと汚れ」(マルコの福音書  7章14〜23節)

私たちは信仰告白と洗礼をもって救われ、神の民とされました。

そして神の民であり続けて信仰生活を送っています。神の民であり続けるとは、どういうことでしょうか? 

それは神様との親しい交わり、生き生きした交わりの中に生き続けるということです。

神様に愛された者、愛されている者として、神様を愛し、信頼し、従っていくということです。

これが聖書的な意味における「聖い」生き方であるのです。この生ける神様との交わりを失ってしまえば、信仰は中身を伴わない形だけのものになってしまいます。

生ける神様との交わりを持ち続けるためには自らの罪との闘いと悔い改めが信仰生活において必須のこととなります。

イエス様の時代、ユダヤ教は、聖書には記されていない数々の掟(口伝律法)を作り、それを日々守ることによって、正しい者、神様の救いにあずかる聖い者であろうとしていました。

動機は悪くありません。

しかし多くの戒めを守るということを、自らの正しさや聖さを主張することの根拠としてしまったのです。

そこでは戒めを守ったかどうかが問われ、自らの罪が問われることがありません。

自らの罪が問われないわけですから悔い改めも起こってきません。

現代を生きる私たちにとっても自らの罪を問うことなく「聖さ」を求めるなら、立派な行いをしよう、自己正当化するといった道しか無くなるのです。

そんな私たちのために、私たちに代わってイエス様が十字架に架かって下さいました。

ですから私たちは自らの正しさを言い張る必要はなく、安心して自らの罪を認め、神に赦しを願えば良いのです。


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メッセージ内容(2017年11月26日)
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