今日の箇所はバプテスマのヨハネが誕生する時のことが記されています。
ザカリヤとエリサベツという老人と生まれたばかりのヨハネという幼子が主イエスの救いの訪れを喜ぶ者として、またその喜びを告げ知らせる者として用いられています。
ザカリヤは、神殿において御使いから妻エリサベツは男の子を生むとのお告げを受けましたが、そのことばを信じなかった為に、それ以来、口が利けなくなってしまいました。
しかし男の子をヨハネと名付ける、つまり、御使いのお告げを受け入れたことが明らかになった時、彼の口は再び開き、神様を讃美し始めたのです。
このザカリヤの様子は興味深く、かつ美しい印象を与えます。
それは、私たちの現実は、いつもこの逆ではないかと思うからです。
私たちの口は、神様なんか信じない、神様の恵みなんて本当だろうか、何で神様の為にこんなことまでしなければいけないのか。
そんなことを語る場合、理屈、屁理屈をこねて、実に雄弁になっているのではないでしょうか。
そして、逆に神様の恵みを語る時、私たちの口は重くなっていたり、口数少なくなっていないだろうか。
そう思うからです。
ザカリヤは口が利けないという言わば大きなハンディを負わされました。
沈黙せざるを得ない状態が続いたのです。
しかし、口が利けるようになって開口一番に出てきたのは溜まり溜まった不平不満ではなく主への賛美でした。
神様は私たちに神様を賛美するために口を与えて下さっているのです。
心から主を崇めましょう。メリークリスマス!
コメントをお書きください