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「恵みとまことによる教会」 (ヨハネ 1章14〜17節)

今年の教会の指針を祈り求めておりました。

昨年は「キリストを真に知る」が教会の指針でした。

 

そのことから、ではキリストはどういうお方であるのか? 様々なとらえ方がありますが今日の箇所の17節に「恵みとまことはイエス・キリストによって実現したのである。」とあり、14節にも「この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。

教会はキリストのからだですから教会とは恵みとまことに満ちている所というのがあるべき姿ということになります。

ですから今年の教会の指針は「恵みとまことに満ちた教会に」としました。

 

「恵とまことに満ちた教会」で終われるのですがもっと動きがあるようにあえて「に」を入れました。

そのあとは「しよう」とか「なることを目指そう」とか入れられるのですがあえて短く止めました。

聖書は私たちが信仰者として成長することを命じています。

からだが成長するためには栄養がなければならないように信仰者として成長するためには神様から恵みとまことを受ける必要があります。

ペテロ第二3:18「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」とあるようにイエス様から力をいただいて成長してゆくのです。

 

さて「神は愛です」ヨハネ第一4:8とありますように神様ご自身の御性質は「愛」です。

その神様の愛を思う時、真っ先に出てくるのが「恵み」です。

恵みとはあるがまま受け入れて下さる受容、憐れみ、また際限の無い赦しです。

この恵みに満ちた神様との良い関係が私たちの魂の平安の土台となります。

そして究極的な神様の恵みは十字架に表れています。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5:8はそれを示しています。

この「恵み」は私たちからは出て来ません。

不十分ながらも似ているのは母の愛と言われます。

私たちはこの恵みを受けるばかりです。

神の似姿に造られた私たちですから、この神からの恵みを受けることは私たちが成長するために不可欠なものです。

 

次に神の愛は恵みで全てではありません。

「まこと」があります。

まこととは真実、真理、現実、正義と言った変わらないもののことです。

イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」ヨハネ14:6とおっしゃいました。

イエス様は真理とは抽象的な概念ではなく永遠に変わらない、つまり不変に続くものであることを言われました。

神の愛が人によってえこひいきされたり、条件によって変わるものでしたら本当に信頼を寄せることは出来ません。

神の聖さが状況によって薄まってしまうとしたらこれも全面的に信頼を寄せることは出来ません。

「昔は永遠のいのちと言いましたが社会状況が変わりまして200年位とみておいて下さい。」とか「当初、新しかったのですが時代と共に古びて色あせてきました」、「悪いと分かっていますが世の中こんなものでしょ」なんて言われますと信頼が揺るぎます。

もちろん、どうなるか分からないものに自分の人生を委ねることなんて出来ません。

ですから信仰者が成長しようとしたら「恵み」と「まこと」を得る必要があります。

クリスチャンは神の恵みとまことをたくさん受けて信仰が成長してゆくのです。

大雑把な言い方ですが「優しさ」だけでは偏った成長となります。

だからと言って「厳しさ」だけでも成長出来ません。

イエス・キリストはこの恵みとまことに満ちたお方でした。

また恵みとまことを実現されたお方でもあります。

17節に「律法はモーセによって与えられ」とありますがイエス様が来られるまでは、救われる者というのは神の基準である律法を守っている者に限られていました。

しかしイエス・キリストによって救いが全ての人に及ぶようになったのです。

 

ある人はこの「恵み」と「まこと」を分かりやすくこう説明しました。

恵みは人間で言えば、肉の部分です。

まこととは骨の部分です。

いくら肉の部分が多くてもしっかりと骨が無いと、しっかりと立てません。

また逆にいくら骨が太いと言っても肉の部分がなければ骸骨だけとなってこれも立てません。

肉の部分と骨の部分が十分あることによってしっかりと立ち、活動することが出来るのです。

 

これを私たちの人間関係や子育てに適用することが出来ます。

例えば、「恵み」だけの人間関係というのは何でも、どんなことをしても赦されるということです。

何でも赦されるわけですから自分は悪くない、相手が悪くて自分は正しいということになります。

また責任転嫁する方向にゆきます。

自分で責任を取らなくなります。

いつも現実を見ないようになります。

自分の罪や弱さを見ようとはしなくなります。

結果、依存的な生き方となり、自立がどんどんと遅れてゆきます。

またまことのみの生き方はどうでしょうか?正しさや現実だけが示される世界です。

言っていることは正しいことですから間違ってはいません。

しかし、恵みの要素、つまりそこには赦しや受容がありませんので人との関係は裁いたり断罪することが多くなってきます。

メッセージを考えてみましょう。

「恵み」に偏ったメッセージは罪がおざなりにされてしまいます。

話の中でずっと神様はあなたを愛しておられることが言われて、最後ほんの少し「でも私たちが罪人であることを忘れずに」と言っても罪への意識がなおざりになります。

また話の中でずっと「あなたは罪人です。

あなたは神から離れたさすらい人です。」それがずっと続けられて最後に「でもあなたを神様は愛しておられるからね」と言われてもピンときません。

私たちが癒され、成長するためにはどちらも必要なのです。

イエス・キリストはこの恵みとまことをどちらも満ち溢れるほど持ち、それをもって人に関わって行かれたのです。

 

恵みとまことについて一つの聖書の箇所から考えてみましょう。

箇所はヨハネ8章3~11節です。

有名な姦淫の現場で捕えられた女性の話しです。

連れてきた律法学者やパリサイ人はこの女性がどんな裁きを受けるかということには関心はありませんでした。

6節にありますようにただイエスを告発する理由を得るためにでした。

石打ちなんて残虐なことは止めなさいと言えば、モーセの律法を軽んじている、つまり神様を冒涜したとされます。

 

(少し補足説明が必要です。今の時代では石打ちとは確かに野蛮で残虐な行為ですがそれは神の聖さの裏返しでもあるのです。

神を呪ったり、冒涜した者に対する仕打ちとして石打ちが出て来ますがそれは神が聖いお方であることを意味しているのです。)

 

だからと言って「この女を石打ちにすべきだ」と言うとイエスは愛の無い、冷酷無慈悲な人間だということになります。

どちらにしてもイエスを告発できるという訳です。

イエス様はどうされたかと言うと、身をかがめて、指で地面に書いておられたというのです。

しかし、あまりにしつこく律法学者達が「どうするんだ。どうするんだ。」と問いかけてくるので「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。

すると、石を手に今にも女に向かって投げんとしている者、大声で女を罵っている者がすごすごとその場を離れて行ったのです。

「罪の無い者が石を投げなさい」と言われることを聞くと、ちょっと無理だな。

自分だっていろんな罪を犯してきているからなあ。

と思ったからでしょう。

聖書には年長者たちから始めて、出て行ったと書かれています。

年を取れば取るほど、たたけば埃がたくさん出てくる者であることが分かりますし、それが普通です。

ついにイエス様とその女性以外誰もその場に居なくなりました。

神の前ではこの女性であろうと、律法学者であろうと、誰もが罪人なのです。

神の恵みは全ての人を神の前に連れ出すのです。

つまり神の前に一つとなって出てゆくのです。

神の恵みが乏しい時は他の人のことが気になってしょうがない。

裁きたくなってしょうがない。

それは神の恵みが乏しい状況です。

そしてイエス様は10節で「あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と聞かれました。

その女性は「だれもいません」と答えました。

この女性はみんなあんなに強気でいろいろと私を責めたてて、怖かったけれど結局、自分自身偉そうなことを人に言えたものではない。

まして裁くことなんか出来ない。

やっと周りの人間はそのことに気付いた。

だからこの件はこれで終わり。」とは思いませんでした。

むしろ自分の罪の重さに気付いたのです。

イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われました。

イエス様は自分の犯した罪の大きさがよく分かっている者、他に責任転嫁しようとしない者には徹底的に恵みをもって臨んで下さいます。

ここでこの女性はあるがままの自分を受け入れてもらう体験、罪赦される体験をしたのです。

 

さらにイエス様は「赦す」だけで終わることなく、「今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われました。

2つの意味があります。

これからの人生は罪との闘いになる。

けれどもその中で罪を犯さないようにと励ましのことばを与えているということと、これが何よりも重要なことですが「他の誰でもない、あなたは神の前に罪を犯した」という事実を言われました。

この時、この女性は生まれて初めて自分の存在を価値あるものとして認めてもらえたということ(これは10節の最初の「婦人よ」という言葉にも意味されています)それと自らの犯した罪の大きさとその罪が赦してもらえたという神の恵みを味わったのです。

結果的にはイエス様と恵みとまことを土台としての繋がりを得ることが出来ました。

 

この婦人と同じでなくともこのように私たちの信仰は成長してゆくのです。

イエス様とはそういうお方なのです。

同じようなキリストの愛、神の愛を神様は一人一人の信仰者に体験して欲しいと願っています。

今年は神の恵みとまことを味わってゆきたいと思います。

そして神の恵みとまことが満ち溢れているような教会を共に建て上げてゆきましょう。

 


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メッセージ内容(2018年1月7日)
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