主イエスの所に一人の女性が娘の癒し(悪霊の追い出し)を求めてやってきました。
最初、主イエスはその女性の願いを聞き入れませんでした。
しかも、救いは先ずユダヤ人に与えられるもので異邦人であるあなたにではありませんとも言われました。
もし、私たちが、この女性のように、主イエスに願い求めたとして、同じような態度を取られ、求めが聞かれなかったとしたらどうするでしょうか。
主イエスの厳しい言葉に落胆しながら、主イエスによる救いを求めることを諦めてしまうのではないでしょうか。
しかしこの女性は、突っぱねられても、主イエスの下を離れることはありませんでした。
むしろ、主イエスに対して食らいつくように返答するのです。
「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」と。
この態度、対応にこの女性が主イエスをどのようなお方として見ているかが表れています。
この女性は、「主よ」と呼びかけています。
実はこの福音書において、主イエスに対して、「主よ」との呼びかけがなされるのはこの箇所だけです。ついてきた群衆ではありません。弟子たちでもありません。
彼らは「先生」と呼びますが「主」とは呼ばなかったのです。
この女性はイエスをはっきりと「主」と認識しつつ娘の癒しを願いました。
そして大胆に主に願いを申し出ます。
この女性にとって重要であったのは祈った通りのことがなったかどうかよりもイエス・キリストを「主」と呼ぶことでした。
このお方に従うならそれで充分という「大胆な信仰」がこの女性を支えたのです。
コメントをお書きください