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「キリストが見える」(マルコ8章22〜26節)

今日はイエス様によって目の見えなかった人が癒され、徐々に見えるようになった盲人の話しです。イエス様のされた癒しは直接身体に触れて癒されたこともあれば御言葉を持って癒されたこともあります。この場合は盲人の人に直接、手を触れて癒されました。どちらであろうとイエス様にとって「癒し」が最終目標ではありません。人が癒しを通して神様の恵みと愛に気付き、救われることが目標です。

彼に手を触れたイエス様は、「何か見えるか」と聞かれました。彼は見えるようになって「人が見えます。・・歩いているのが見えます。」と答えました。この「見えるようになって」ということばは「目を上げる」という意味であり、このことばは主イエスが幾度も天の父なる神様に賛美と祝福を捧げる際に使われています。つまり「目を上げる」とは肉体的に顔を上に上げるということだけではないのです。敢えていうなら霊的世界に目が開かれるとも言えるでしょう。列王記第二6章において預言者エリシャがアラムの軍勢に包囲され絶体絶命の危機的状況に陥った時、恐れ怖気づいた味方の若者のために神様にエリシャは「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」。と祈りました。結果、若者は目が開かれて、驚くべき数と力を持った天の軍勢を見たのです。私たちは肉の目に映る現実、圧倒的なこの世の力に取り囲まれている現実こそが、ただ一つの現実と思いやすい者です。しかし、神によって目が開かれるなら別の神の現実を見ることになるのです。それはキリストを見つめていると見えてくるものです。


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メッセージ内容(2018年2月11日)
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