前の8章において主イエスは初めて弟子たちにご自身の死と復活を予告されました。
「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」(8:31)
十字架における受難だけでなく栄光の復活をも教えられたのですが弟子達、特にペテロは苦難の道しか頭に残らず、思わず主イエスをいさめることまでしてしまいました。
そのペテロを今度は主イエスがいさめ、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(8:34)と言われました。
主イエスに従いたいなら、自分の思い描く救いではなく、十字架の主イエスによって示される救いのみを追い求め、主イエスに倣って、それぞれの苦しみを担うようにと言われたのです。
そうすると結局はペテロのように主イエスに従って歩む者は、この世で、何の希望も見いだせないまま苦しみだけを担うことになるという結論に至るのでしょうか?
そうではありません。
主イエスは「私に従う者は生きている間に必ず神の国が力にあふれて現れるのを見ることが出来る」と断言され、その一つの顕れとしてモーセとエリヤと3人で話をする光景を見せられたのです。
神の言葉を否定するような時代、キリストを信じていることを恥と思わせるような時代に私たちは生きています。
しかし神様の支配の完成がはっきりとは分からない中にあっても、神様は信じ従う者にご自身の栄光を垣間見させてくださるのです。
主の十字架の苦難と復活の栄光は一つなのです。
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