今日の箇所はある父親が汚れた霊につかれて悲惨な目にあっている息子を癒してもらおうとキリストの弟子達のところに連れてゆき、弟子達はいつものように悪霊を追い出そうとしたり、癒そうとしたけれどもそう出来なかった様子が書かれています。
結果的には主イエスが癒されました。弟子達はどうして自分達が癒すことが出来なかったかという理由を主イエスに尋ねました。主イエスの答えは「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」というものでした。
これは祈りにおいて熱心さが足りないとか、時間が短いということをおっしゃっているのではありません。祈りにおいて神様との正しい関係になっていなかったということです。祈りは私たちと神様との関係を明らかにします。
前の6章において弟子達が初めて伝道に遣わされ、その時に主イエスから悪霊を追い出す権威をいただき、実際数多くの癒しがなされた時は弟子達の祈りの姿勢は「悪霊が追い出されたり、癒しが起こるのはすべて神の御業であり、私たちはそのごく一部を担わせていただいているに過ぎない」というものです。
しかし今回は「私たちがこの子を助けたいので神様に力を貸してもらいたい」というものです。善意ではあるのですが自分が中心でイエス様は助っ人としての存在なのです。
私たちも知らず知らずの間に神の御心と御業の中で用いられている存在に過ぎないとの自覚が無く、私の善意、私の思いと計画に神様はどのように関わって下さるのかと考え、祈っていることが多いのではないでしょうか?
「わたし」にとっての神ではなく、「神」にとってのわたしなのです。
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