今日の箇所は「つまずき」が大きなテーマとなっています。
「つまずく」とは信仰の挫折、信仰を失ってしまうことを意味しています。
主イエスを信じている一人の信仰者をつまずかせ、信仰を失わせてしまうことは、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」というほどの大きな、恐ろしい罪なのだと警告されているのです。
この警告は弟子たちに向けて語られています。
つまり、イエス・キリストを信じる信仰者の間で、人の信仰をつまずかせることが起る、それを主イエスは警告しておられるのです。
教会における交わりの中で、人を傷つけ、悲しませるようなことが起こると、それは信仰を前提としない世間一般の交わりにおけるよりもはるかに深く人の心を傷つけ、その人をつまずかせ、信仰を失わせてしまうことにもなるのです。
次の「つまずき」
43節は人をつまずかせることではなく自分自身つまずくことが取り上げられています。
自分がつまずいてしまうことを引き起こすものがあれば、たとえそれが片手、片足、片目というように自分の体の大事な一部であっても切り捨てなさいと主イエスはおっしゃいます。
手、足、目は私達の存在だけでなく信仰生活を高めるために先ず用いようとするものです。
しかし、ひとたび方向が違えば神が崇められるよりも自らの価値が高められるようにと動きだし、やがて神との交わりを妨げるものになっていく可能性があるのです。
手、足、目が無くなれば不自由になります。すると自らの力によるのでなくむしろお世話をしてもらわなければならなくなります。
その結果、ただ神の恵みと憐れみに活かされているということに気付くようになるのです。
それが主イエス・キリストのいのちに生きる道となります。
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