前に主イエスが、エルサレムの神殿の境内で、売り買いしていた人々を 追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したという、いわゆる「宮清め」の出来事を見ました。
主イエスの怒りは宮で商売をしているということよりも、宮が異邦人も含めたすべての民の祈りの家となっていないことに向けられました。
異邦人が唯一、礼拝し、祈ることが許されていた場所がユダヤ人達の礼拝の準備の場とされていたのです。
そして主イエスは宮が祈りの家であるからこそ祈りについて2つのことを教えられます。
一つは神を信じ切るということです。
信仰をもって祈るなら山をも動かすことが出来ること。
それは私たちにとって不可能と思われていることも実現すると約束されています。
私たちにそのような力が宿るのではありません。
動かし、実現してくださるのは神です。
しかし、それは私たちの信仰による祈りによるのです。
次に赦しについて書かれています。
山をも動かす信仰による祈りの次に書かれているのは興味深いことです。
しかし、罪の赦し、人を赦すということは山をも動かすことに匹敵するぐらい難しいことと言われているように理解できます。
「主の祈り」にも出て来ますが人の罪を赦すことは自分の罪を赦してもらうことの交換条件ではありません。
しかし主イエスは十字架の贖いによって到底自分の力では赦されるはずの無い私の罪をすでに赦してくださったのです。
この赦され難い自分の罪が赦されていることの恵みと感謝が人を赦す力となってゆくのです。
主イエスは神の宮がすべての民の祈りの家にほど遠くなっていることを嘆き、真の神への礼拝、まことの罪の悔い改めと赦しを目指し十字架に向かわれたのです。
悔い改めの実が求められています。
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