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「人の目から自由にされて」(マルコの福音書 12章38〜44節)

律法学者とは神の戒め、律法についての専門家であり、社会が神の御心に沿った歩みが出来るようにアドバイスしたりする者でした。

それゆえに人々から尊敬を受けたりしていたのですが福音書が書かれた当時は自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。

神が崇められているようで実は自分が崇められることを考えるようになっていたのです。

その根本的な原因は神よりも人の目を意識して歩んでいたからでした。

 

次にごくわずかな献金を捧げたやもめの話しが出て来ます。

この話は献金は額の問題ではないことを教えているのでもなければ、収入の中の割合、パーセンテージが大切なのだということを教えようとしているのでもありません。

額にしても割合にしても考えられていることの基本には人がどのように評価し、見ているか、つまり人の目ということがあります。

 

律法学者の姿を反面教師として、そしてやもめの姿から教えられることは人は社会、人間関係の中で生きていますので人の目や評価はどうしても気になるところではありますがそこから自由にされるのはただイエス様に、神様にのみ目が向けられてゆくことなのです。

 

主イエス・キリストの慈しみに満ちたまなざしが、人の目、人の評価、人からの誉れを越えて、私たちを支え、生かし、力づけるのです。

主イエスのこのまなざしの中で生かされることによって私たちは、このやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、自分の力、持っているものを、それがどんなにちっぽけな、取るに足りないものであっても、心をこめて神様にお献げすることができるのです。