14節に「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば」とありますがこの謎のような言い方は、旧約聖書ダニエル書の11章と12章から来ています。この時、エルサレム神殿に異邦人の神、偶像が置かれていました。それは主なる神様に対する最大の冒涜でした。
新約においてはこの時が神の民の苦しみが頂点に達する時でもあると言われています。みことばにはその時には一目散に逃げなさいと書かれています。世の終わりの大きな苦しみに際して「逃げる」ことが教えられています。
しかし、これは前節の「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」ということばと矛盾するように感じられるかもしれません。苦しみを耐え忍ぶとは、逃げずに踏み止まり、苦しみと戦っていくことではないのか、苦しみに背を向けて逃げろという教えと、苦しみを耐え忍べという教えは相入れないのではないか、と思うのです。しかし、このことは、私たちの信仰生活に対する大切な示唆を含んでいます。神様は信仰に忍耐が求められると共に必要とあらば逃げるようにも教えておられます。
「逃げなさい」というのは、自分の力で最後まで戦おうとするな、ということです。
信仰生活を続けてゆく時に多くの場面で忍耐が必要とされます。しかし、私たちの忍耐が救いをもたらすのではないのです。私たちが苦しみと戦って勝利したから救いを獲得するのではないのです。私たちは耐え忍ぼうと逃げようと最終的には神様の憐れみによって救っていただいた者に過ぎないのです。主イエスも教えられた「主の祈り」の中で「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と「自ら闘う」よりも「神に守られる」ことを祈るようにと勧めておられます。信仰者としての勇気と謙遜が求められます。
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