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「主の希望に生きる聖餐」(マルコ14:22~26)

聖餐の意味とは主イエス・キリストの十字架の死によって神様は新しい契約を、主イエスの弟子たちとの間に結んで下さったということであり、主イエスが弟子たちに分け与えて下さったパンと杯はそのことの印です。

 

聖餐において主の体と血とにあずかりつつ歩むという信仰がもっと深められていきたいと思います。

では信仰が深められるとはどういうことなのでしょうか。

24節で主は「これはわたしの契約の血です。

多くの人のために流されるものです」とおっしゃいました。

主イエスの血は「多くの人のために」流されたということです。

主の体と血とにあずかる信仰が深められるとは、このこと、つまり「多くの人」をより深く意識させられていくことだと言うことができます。

キリストによる救いは自分一人の事柄ではなくて、「多くの人」と共にあずかるものなのです。

主イエスを信じる信仰は、仲間と共に生きる信仰です。

その仲間とは同じ信仰に生きている者同士というだけのことではなくて、主の体と血とに共にあずかっている仲間、主の流された契約の血によって共に神の民とされている仲間です。

 

25節の「神の国で新しく飲むその日までは」とは「主が来られる時まで」ということです。

主イエスがもう一度来られる時には、復活して生きておられる主イエスが、私たちと共に食卓について下さいます。

聖餐はその恵みの先取りです。

つまり聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスの十字架の死の恵みにあずかるだけでなく、その主イエスが復活して永遠の命を生きておられる、その新しい命の恵みにもあずかるのです。

主の体と血とにあずかる信仰が深められることによって私たちは、主の復活の命にあずかる希望をよりはっきりと見つめて生きる者とされていくのです。