ゲッセマネの園で主イエスは祈られた後、弟子ユダの裏切りのしるしである挨拶がわりのキスから始まって、すべての弟子達が逃げ去り、最後は十字架の刑を受けられます。
一番弟子と思われていたペテロも結局は主イエスとの関係を全否定し、その関係は「師と弟子」との関係から「イエスのそばに立っていたひとり」「たまたまそこに居合わせたひとり(新共同訳)」といった関係に成り下がってしまいます。
そこに居合わせた福音書記者のマルコも着物を脱ぎ棄て裸になって命からがら逃げるという惨めで恥ずべき失態をしでかします。
しかし信じ難いことですが主イエスご自身は決して絶望の中にはおられないのです。
主イエスは、絶望的な中に置かれていながら十字架の死への道をご自分から、堂々と歩まれました。
その主イエスのお姿の意味をはっきりと語っているのが、49節後半の「しかしこうなったのは聖書のことばが実現するためです。」というみ言葉です。
弟子のユダに裏切られ、一番の弟子ペテロも恐怖に捕えられて弟子としてのあり方を失い、全ての弟子が逃げ去ってしまう、そのような中でまるで強盗でもあるかのように捕えられる、それら全てのことが、聖書の言葉の実現、つまり父である神様のみ心、ご計画によることなのだということを、主イエスははっきりと意識しておられ、そのみ心に従おうとしておられるのです。
この主イエスの絶望的な姿に同情する私たちにも主イエスはおっしゃいます。
「私の悲惨な姿に同情するのではなく、あなた自身の罪に嘆き、自らの罪人としての姿に絶望するが良い。
そして私の十字架の贖いがあなたを根底から支え、救い出したということを信じていきなさい。」と。
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