· 

9月16日「私のための主イエスの祈り」(マルコの福音書 14章32〜42節)

主イエスが十字架にお架かりになる前にゲッセマネという場所で祈られた様子が記されています。この時、主イエスは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃいました。これは直訳すると「わたしの魂は死ぬほどに悲しんでいる」となります。魂の渇きに苦しむ姿、これはただつらいこと、苦しいことがある、という以上に大きな、深刻な苦しみであると言えます。

このことから主イエスは私たちが持つどのような苦しみ、悲しみにも共感し、理解してくださると言えます。それだけではありません。というより、もっと根本的なことですが主イエスの受けられた苦しみと私たちの持つ苦しみとは全く違っています。私たちの苦しみ悲しみは大抵の場合自分自身に原因の多くが、あるいは一部があります。特に人間関係における苦しみ悲しみは、たとえ自分にいろいろ言い分があるとしても、やはりお互いに原因があるのであって、相手だけが一方的に100%悪いということはめったにありません。しかし主イエスの苦しみは、ご自身の罪によることでは全くありません。主イエスは私たちの全ての罪を背負って、私たちに代って苦しみを受けて下さったのです。十字架につけられ、神に見捨てられて滅ぼされなければならない私たちのために、罪に対する神様の怒りによる裁きを引き受けて下さって、神様に見捨てられる苦しみを受けて下さったのです。主イエスは、私たちの罪のゆえの苦しみを、当の私たち以上に深く苦しんで下さったのです。

ですから「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とおっしゃった主イエスが悲しんでおられたのは、実は私たちの罪の深さであり、罪のすさまじさであったのです。ゲッセマネにおいて主イエスは私のための祈りをささげて下さったのです。この祈りが弱い私達の神様との関係を支えるのです。