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10月21日「何を言っているのかわからない」(マルコ14章66~72節)

主イエスが捕えられた時、ペテロを始めとする弟子たちは皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまいました。

しかしペテロは、主イエスが連行され、ユダヤ人の議会の人々によって尋問を受ける大祭司の屋敷まで、遠くからそっとついて行き、人々にまぎれてその中庭に入っていきました。

他の弟子と比べるならペテロはそれなりに誠意をもって主イエスに従ったと言えるかもしれません。

しかし、ペテロは結果的に主イエスのことを「知らない」と言いました。

神に誓っても「主イエス・キリスト」とは何の関係も無い、赤の他人とまで言い切ったのです。

三度目に否定した直後、ペテロは主イエスの予告のことばを思いだし、泣き出しました。

しかし後々、ペテロは主の弟子としてすばらしい働き人となってゆきます。

それは彼が心底から自分の罪深さを知り、悔いたから、そうなったのでしょうか。

彼がどんなに後悔して泣いても、失われた関係が回復されることはありません。

後悔して泣けば救いが得られるわけではないのです。

自分の罪深さ、ふがいなさをいくら反省し、自分を責めたててもそこに救いはありません。

 

今日の箇所は、キリストの受難、十字架、復活という流れの中におかれています。

この前に大祭司の下に「お前は神の子、救い主か?」と尋問を受けて、はっきりと主イエスは「わたしは、それです」と宣言され、そして十字架の刑へと進んでゆきます。

つまり、主イエスのみ心のうちに十字架による救いのわざが進められていき、復活をもって完成をみるのです。

ここにこそペテロの救いがあるのです。

ペテロは後悔して反省して激しく泣いたから救われたのではありません。

主イエスの十字架と復活によってこそ、ペテロの涙は救いの喜びへと変えられたのです。

 


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メッセージ内容(2018年10月21日
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