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11月4日「新しい生き方を目指して」(マルコ 15章16〜32節)

キリスト信仰とは主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とが私たちの罪のための、私たちの身代わりとしての苦しみと死であったということ、主イエスは私たちが期待しているような強い者としてではなく、私たちの罪を背負わされ、罪人である私たちが裁かれて絶望の内に死ななければならないはずの十字架の死を引き受けて、その苦しみを嘗め尽くして下さることによって私たちのまことの王、救い主であって下さるのだ、ということを信じることです。

それは、自分が思い描いている救いのイメージにこだわり、こういう救い主なら信じてやる、と言っているのとは正反対のことです。

神による救いは、独り子主イエスが、私たちの罪を背負って、また人間の罪のために引き起こされる悲惨さ、苦しみを余すところなく背負って、十字架のすさまじい苦しみと死とを引き受けて下さったことによって与えられたのです。

 

生まれつきの私たちは、自分が強い者、立派な者になろうとしています。

それによって自分の人生を切り開き、願いを叶え、充実した人生としようとしています。

そういう思いによって私たちは、自分を救い、人をも救うことのできる強い救い主を待ち望んでいるのです。

それが私の中にある自分が勝手に理想とした救い主の姿です。

しかし神が私たちに与えて下さる救いは、強い者、立派な者となる力を与えることではありません。

むしろ、どうしようもなく弱い者であり、立派な者になり得ない罪人である自分、そしてそれこそが、本当の自分であるわけですが、その弱い罪人である本当の自分が、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって担われ、赦され、支えられている、それこそが神の与えて下さる救いなのです。

 

真実の主イエスに従うことこそ信仰者としての新しい生き方となるのです


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メッセージ内容(2018年11月4日)
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