年若く、結婚もしていないマリヤにみ使いが「あなたは身ごもり、男の子を産みます。名前をイエスとつけなさい。」と告げました。
当然、マリヤは戸惑い、不安になりました。
しかし、すでに高齢ながらも身ごもっていたエリサベツのことをあげながら「神にとって不可能なことはありません。」とのことばをみ使いは宣言しました。
そしてマリヤは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と応答したのです。
マリヤはここで神は全知全能なるお方であるがゆえに奇跡やしるしを起こすことも出来るという一般的な意味で神を信じたのでしょうか?
実は「神にとって不可能なことはありません。」ということばは原文では「なぜなら、神においては、全ての言葉は不可能ではないからだ」という直訳になります。
つまりマリヤがここで信じて受け入れたのは、神様は何でもできるという一般的な真理ではなくて、神様は語られたみ言葉を必ず実現することができる、それゆえに私に対して語られたみ言葉も必ずその通りに実現して下さるということだったのです。
マリヤはまた「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」とも言いました。
「はしため」とは女奴隷という意味ですがそれは自分が取るに足りない者であるということよりも「主のはしため」、主にすべてを委ねた者となったということです。
この時からマリヤは神様のみ言葉が自分の身に実現することを祈り求める者となったのです。
み言葉が必ず実現することを信じて、自分の身をその恵みのみ言葉に委ねたのです。
自らが主のはしため、僕であることを認識し、み言葉が必ず実現することを信じて歩むことこそ信仰者として生きるということです。
恵みのみことばに委ねて歩んでまいりましょう。
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檜山直秀 (水曜日, 08 11月 2023 12:52)
神には残念ながら不可能はあります。救えない命もあります。貴方方の大前提には、神に不可能はない、これが先ずあって実際に苦しんでいる人間を否定して来る。裁くなかれとイエスは言わなかったでしょうか?パウロは泣く者と共に泣きと言わなかったでしょうか?