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12月2日「幸いな人」(ルカ1章39〜56節)

今日の聖書の箇所にはマリヤがエリサベツの語った言葉への応答として歌った歌、いわゆる「マリヤの賛歌」が出てきます。

マリヤは「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と歌い出しました。

冒頭に来ているのは「わがたましいは」ではなくて、「あがめる」という言葉です。

あがめるとはラテン語で「マグニフィカート」という言葉なので、この「マリヤの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれています。

その意味は「大きくする」です。

「主を大きくする」それが「主をあがめる」の意味なのです。

 

「主を大きくする」とはどういうことでしょうか?実は主を大きくする、神を大きくすることは不可能なことです。

全知全能なる神様、全ての創造主なる神様は無限で比類無きお方ですので、大きくされる必要など全くないのです。

シンプルな理屈であり、霊的真理ですが、それでも主を大きく出来るとしたら自分が弱く小さなものとなることしかありません。

神様をあがめるためには、自分の小ささ、弱さ、罪深さを認めてへりくだることが必要なのです。

マリヤが「幸いな人」であるのは、神様のみ前で卑しい、ちっぽけな者でしかない自分に主が目を留めて下さり、つまり選んで下さって、そのみ力によって偉大なことをして下さり、用いられたことにあります。

 

まことの幸いは私達が神様の僕、はしためとなって、み業のために用いていただくことにあるのです。

そこにはまたまことの喜びもあります。

その幸いと喜びがマリヤにとどまらず、今を生きる者にも与えられることを知らせるためにこの「マリヤの賛歌」が記されているのです。

私達も「主を大きくする者」として用いられ、教会生活に励む者とされたく願わされます。