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11月11日「救いと裁きの十字架」(マルコ15:33〜41)

キリスト者にとって信仰の中心は、主イエス・キリストの十字架です。

十字架が私たちの救いであるという信仰は、主イエスこそ、神の子であるという信仰に生きることに他なりません。

しかし、主イエスが神の子であるという信仰の中心は、人間にとって躓きでもあります。

 

ではそのような躓きを越えて、主イエスこそ真に神の子であるとの信仰はどのようにして与えられるのでしょうか。

確かに、主イエスのお語りになった言葉の中には、含蓄に富んだ、座右の銘にしたいような言葉が幾つもあります。

又、驚くような癒しの御業があります。

しかし、聖書の記述によればどれだけ主イエスの偉大な教えや御業を見ても、そこで、主イエスが神の子だという信仰につながって行ったのではないことが分かります。主イエスが神であるという信仰は、他でもなく、主イエスの十字架の出来事が示される中で起こされています。

十字架は、信仰の中心であると共に、信仰の出発点でもあるのです。

 

十字架上において、主イエスは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。

主イエスのこの叫びは詩篇22篇の作者の思いとは根本的に違っています。

十字架上において神の子が人間の裁きに合うというあり得ない出来事、ここに人間の罪を神の聖さゆえに妥協無しに裁かれる義なる神とその愛ゆえに救おうとされる神の葛藤の中からこの苦しみのことばが出てきているのです。

そばで職務として十字架刑を遂行していた百人隊長が思わず「この方はまことに神の子であった」との告白に至ったのは自分の罪のために主イエスが苦しまれていること、自分の罪が主イエスを十字架につけたことに気がついたからではないでしょうか。


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メッセージ内容(2018年11月11日)
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