今日の箇所の後半にザカリヤの賛歌が出てきます。マリヤの賛歌がその冒頭の「あがめ」という言葉のラテン語訳から「マグニフィカート」と呼ばれているように、このザカリヤの賛歌も冒頭の「ほめたたえよ」のラテン語である「ベネディクトゥス」という呼び方で親しまれています。しかし、マリヤの賛歌に対し、ザカリヤの預言とも呼ばれます。理由は歌の後半にザカリヤの子、バプテスマのヨハネについて書かれているからです。そこに生まれたばかりの幼な子ヨハネが将来どのような者となり、どのような働きをしていくか、それによって神様のどのような恵みが実現していくのか、という予告を語られています。
ヨハネはどのような働きをしたのでしょうか。「道を備える者」です。救い主イエス・キリストのための道備えをする人です。ヨハネと主イエスの間には、相撲で言えば露払いと横綱のような、落語で言えば前座と真打ちのような関係があります。しかし、それはヨハネの働きが軽く小さいということではありません。彼は人々に悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。彼は人々の罪を厳しく断罪し、それに対する神様の怒りを語りました。罪の赦しが無ければ救いが無いことを示し続けました。
罪の赦しをご自身の十字架の死と復活によって成し遂げ、与えて下さる救い主イエス・キリストの道備えをしたのです。ヨハネの働きによって、イエス・キリストによる救いの中心は罪の赦しであることが明らかにされたのです。ヨハネの道備え、主イエスによる救いによって平和の道へと導かれます。このバプテスマのヨハネと主イエスによって「平和」は「目標」ではなく、「現実」となったのです。
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