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12月16日「神は我らとともに」(マタイ1章18~25節)

マタイが1章で語っているのはもっぱら、母マリヤがどのようにしてイエスをみごもったか、そしてそれを知った父ヨセフがどうしたか、ということです。特にこの章では、父ヨセフに焦点が当てられています。

ここに「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった」とあります。

この、たった三行ほどの間に、淡々と書かれていることは、実はとてつもなく重大なことです。

ヨセフは、婚約者が、自分以外の何者かによって妊娠したという事実を突きつけられました。

 

このような状況の中で、ヨセフは一つの決心をします。

「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」。

正しい人ヨセフが悩みに悩みぬいて出した精一杯の結論でした。

 

この時、ヨセフはみ使いを通して、神の御心を知らされます。

それはマリヤが聖霊によって身ごもるということ。そして生まれた暁には名をイエスと名付けることでした。

ここでヨセフがみ使いの声を聞き、その声に聞き従いましたがそれは取りもなおさず神がヨセフの信仰に御自らの計画をゆだねられたということでもあるのです。

 

彼の信仰の決断に、神はご自分の独り子の運命を、命さえもお委ねになったのです。

クリスマスとは、そういうことが起こった時でした。

 

インマヌエルとは、神様がいつも一緒にいて下さる、という一般論ではありません。

ヨセフは神様の語りかけを聞きました。

それに応えて彼は、幼子イエス・キリストの人生を背負ったのです。

そのことによって彼は、共にいて下さる神を知り、インマヌエルの恵みを体験しました。

私達は神から委ねられた重荷を担う時、神が共におられる恵みにあずかるのです。