今日は主イエスが話されたたとえ話の中でも特に有名な放蕩息子の話です。
親の遺産をまだ親が存命中に求め、ねだる失礼な息子は相応の大金を手に自由を求めて町にやってきます。
彼にとって父親の存在は自分の自由を奪い、束縛する邪魔な存在でしかなかったのです。
やがて金の切れ目は縁の切れ目とばかり、人は息子から去り、様々な試練に会う中で孤独と惨めさ、人生の悲哀を味わいます。その中で彼は自分の厳しい現実を知らされ、同時に父(神様)のもとにいることはどんなに幸せなことであったのかに気づきます。
彼は意を決して故郷に戻ろうとしました。
ただそれでも父が赦してくれるかどうか分かりませんし、自分がどんな扱いを受けるか不安だったことでしょう。
しかし、故郷を目指して進んでゆくと、何と父親が迎えに出てきてくれたのです。そして彼を見るなり、走り寄ってくれたのです。
その父の姿から息子を赦すも赦さないも、すでに受け入れ、帰ってきてくれたことを喜ぶ父親の姿があるのです。
これは私たちが神無しとして歩んでいる道がどんなに不毛で虚しいことに気づいて、神のもとに立ち返って来てくれることを天の父は待っておられるかを示しています。私たちの天の父なる神様のもとに立ち返るまで本当の魂の平安は無いのです。
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