ここに「力のある者」というのはどういう者のことでしょうか?
パウロは確かに肉体的に病をもっていましたので身体の強さではないと思います。
「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。」
このパウロの教えは、本当に信仰が強いとはどういうことかを語っています。
本当に信仰が強い人というのは、信仰者らしい立派で品行方正な生活をしているとか、良い行いを沢山している人ではありません。
本当に信仰の強い人とは、人の弱さをになうことができる人です。
そのために、自分の満足を求めることをやめることができる人です。
この「になう」という言葉は「担ぐ、背負う」という意味です。
ルカ福音書では「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(9:23)
という主イエスのお言葉にこの言葉が用いられています。
3節の「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。」を読むと「私になんかとてもできないことだ」と思いますが別の聖書では「キリストも」と訳されています。
この方がニュアンスに近いと思われます。
キリストから私たちは「強さ」「力」をいただこうとする考え方は信仰生活を自分の信仰の強さによって乗り切ろうとする発想です。
私たちの信仰が強かろうが弱かろうが、私たちがキリスト者であり得るのは、主イエス・キリストが、私たちの弱さを担って下さっているからです。
キリストが私たちを愛して下さり、私たちの弱さと罪を担って十字架にかかって死んで下さるほどに、私たちと一つになって下さった。
その愛に支えられているのです。
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