今日の箇所で弟子たちは「主よ。…私たちにも祈りを教えてください。」と主イエスに願い出ました。
そして主イエスが教えて下さった祈りはあまりにも有名な主の祈りでした。では彼らは祈りについて何も知識が無かったのでしょうか?
いいえ、イエスの弟子たちは皆ユダヤの人々でした。ユダヤの人々は幼いときから祈りを教えられ、毎日良く祈っていました。
おそらく、現代の私たちの何倍も祈りに時間を費やしていたでしょう。
そんな弟子たちでさえ、「主よ。…私たちにも祈りを教えてください。」とイエスに願い出ているのです。
彼らは祈りについて学びたかったのです。
「祈りを学びたい」ということは学ぶことによって成長できると考えているということです。
祈りについては結構やってきているからもう教わることはないとは考えなかったのです。
絶えず祈るということは神を知らない人のように四六時中、自分の願いだけをくりかえすだけではなく、神のみわざを求め、神のみこころに触れていくような祈り、本当の執りなし手のなる祈りなど祈りを学びながら信仰者として成長を目指すということなのです。
祈りは呼吸のようなものだと言われます。
それは祈りにおいて呼吸のように神様から新鮮な神の息吹をいただかないと私たちは一日たりともやってゆけないということを意味しているのではないでしょうか?
ちなみに霊とは息という意味であり、天地創造において土に神が息を吹き入れて人が造られましたし、聖霊とは聖い神の息という意味です。
息を吸って(み言葉を心に取り入れ、思いを巡らすこと)、息を吐く(祈りを口にする)このようにして、祈りにおいて神との交わりのうちに信仰者は信仰の高嶺を目指します。
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