ヨハネの福音書には最後の晩餐、特に聖餐のことについては他の福音書のように詳しく書かれていません。
しかし、弟子たちの足を洗ったことについてはヨハネの福音書だけが詳しく記しているのです。
どのような意味においてヨハネは足を洗うことを重要なこととしているのでしょうか?
イエスはご自身の愛を残るところなく「弟子たちの足を洗うこと」によって表されました。
ペテロはそのことに非常にためらいを覚えました。
当然です。
自分の仕えている主に自分の最も汚れた部分を洗ってもらうわけですから。
しかし、よくよく考えるとためらいを覚え、神様に申し訳ない思いを持ちながらも私たちの人生は結局、神様の恵みと憐れみの中でかろうじて歩ませていただいているに過ぎないのではないでしょうか? 親に散々迷惑をかけながら、さも自分の力で歩んでいると錯覚している者、悪いと気づいていながらありがとうの一言も言えない子供のようなものかもしれません。
しかし、神はそのようにしてご自身の愛をすべて表してくださったのです。
さらに主イエスは「私にお返しをするように」とはおっしゃいません。
「互いに足を洗い合いなさい」と言われます。
クリスチャンは時々、「私は足を洗ってあげる者であり、洗ってもらう者ではない」という意識を持ちます。
それはキリスト者の気高い歩みに見えて、ただ気位の高い歩みと周りに映っているかもしれません。
ペテロは主の愛が大きすぎると「決して洗わないで下さい」と言い、主の愛が小さすぎると「手も頭も洗って下さい」と言いました。
信仰とは神のみこころに従うことであり、神のめぐみと憐れみに全面的に寄り頼んで歩むことなのです。
主イエスは今日も私の与える愛をあなたがたの間で分かち合いなさい、与え受け取り合いなさいとおっしゃっています。
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