先週、わたしたちは主イエスのよみがえり、復活を覚えてイースターを祝いました。
ただ例年と違って今年はライブネット礼拝という形になり、ここで共に持つことが出来なかったことは残念でした。
特に聖餐式を共に持てなかったことを心残りに思っています。
しかし、それでイースターが終わったわけではありません。
一年52回のすべての日曜日は、イエス・キリストの復活の祝日、「小さなイースター」なのです。
ユダヤの人々は土曜日を安息日として、その日に礼拝をしていますが、クリスチャンである私たちは、日曜日に礼拝を守ります。
なぜでしょうか。
日曜日がキリストの復活の日だからです。
教会が日曜日を礼拝の日と定めたことは、イエス・キリストが復活されたことの客観的な証拠とも言えるのです。
皆さんは毎週の日曜日をどんな思いで迎えておられるでしょうか。
ここしばらくはネット礼拝ですのでパソコンやスマート画面の前にいるということになりますね。
しかし、礼拝堂であろうとパソコンの前であろうと思いは聖なる神様の前に出ているという思いで礼拝していただきたいと願っています。
誰も見ていないからパジャマ姿で寝そべったり、飲み食いしながら、あるいは仕事しながら礼拝されているということはありませんか?ある先生がコロサイ人ならぬ「この際(さい)人」にならないように気をつけましょうと言っておられました。
この際、こんな格好でもしようがない!この際、時間の節約になるから礼拝しながら、あれもこれもやろう!しかし、こういう時だからこそ、他人がしている、していないではなく自分自身の意識として礼拝に集中することが必要です。
なぜなら礼拝とはイエス・キリストにお会いする時ですし、主の備えてくださった十字架による罪の赦しと復活のいのちに活かされて新しい週を始める時ですから。
主イエスは言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)たとえ、どんな重荷をかかえていても、礼拝に来るとき、わたしたちは、復活されたお方、いのちの主に出会い、疲れたからだと傷んだ心をいやしていただき、このお方のもとに重荷をおろすことができるのです。
イエスはご自分の約束に真実なお方であり、信仰をもってイエスに近づくとき、イエスはかならずそこにいてくださいます。
ただどんなにイエスがわたしたちに近づいてくださっていても、すぐそばにいて下さっても、わたしたちの側に信仰がなければ、イエスに出会い、イエスを知ることはできません。
きょうの箇所の、エマオの村出身のふたりの弟子がそうでした。
復活されたイエスがふたりと一緒に歩き、語りかけておられるのに、このふたりは、それがイエスだと分からなかったのです。
しかし、彼らはイエス様の取り扱いを受け主イエスと出会い、ついには「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」32節と語るまでになったのです。
イザヤ書9章6節に「救い主が誕生し、その名は不思議な助言者、力ある神」と呼ばれるとあります。
不思議な助言者とはワンダフルカウンセラーと英語では訳されます。
カウンセリングというのはカウンセラーとの関係を通じて相手の行動や思いが変化してゆくことと定義づけられますがまさに落ち込んでいた二人の弟子たちが主イエスとの関わりの中で変えられてゆく過程(プロセス)を見たいと思います。
先ず時は彼らが出身の村エマオに行く途中のことでした。
行くというよりも帰る途中でした。
エルサレムであったイエス・キリストの十字架からくる失意と落胆の中に彼らはいたのです。
いっさいの出来事について話し合ったり、論じ合ったりしていたわけですからずいぶん語り合ったことでしょう。
しかし、話はずいぶん否定的な方向に行っていました。
イエス様がそばを一緒に歩かれても彼らは気がつきませんでした。
そしてイエス様が「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」17節と聞かれると「ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。」18節とあります。
これはとても印象的な場面と言えます。
人が癒されてゆくためにはまず辛い現実をもう一度体験しなければならないのです。
さらにクレオパという人は。
「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」と言っています。
この言葉の中には強い怒りと悲しみの感情が入っています。
そこでイエス様は「どんな事ですか」と聞かれ、二人のことばに耳を傾けられたのです。
主イエスはいきなり「私はここにいるではないか」と言って彼らを驚かせたり、叱りつけたりはされなかったのです。
というより彼らの失望と落胆の思いが強すぎて、何も頭や心に入ってこないぐらい否定的な感情に囚われていたのです。
彼らが特別なわけではありません。
私たちも時に極端に否定的な思いや病的な思いを持つことがあります。
「私は世の中で一番不幸な人間です。」「世の中の人すべてが私のことをバカにしている」など強い否定的な感情を持つとそれは強い確信や信念、時には病的に思えるぐらいの思考を持つことがあります。
それからこのふたりは、イエス様に心の丈を打ち明けます。
その話の内容とはイエスは「力のある預言者」、また「イスラエルを贖う人、すなわち救う人」(19-21節)と人々から呼ばれ、自分たちも望みをおいていたけれども、結局死刑となり十字架につけられたということでした。
それ以外にも、墓に行った仲間の女たちがみ使いから「イエスは生きておられる」と告げられたことも聞いていました。
また、墓を確かめに行った仲間の弟子たちから、墓が空でイエスの遺体がなかったことも伝えられていたのです。
そういった話をいろいろと二人で話をしたり、議論をしたのですが結局、彼らの心を占めていたのはイエスの十字架は敗北のしるしであり、この先自分たちの将来には何の望みも生きがいもなくなってしまったということだったのです。
つまり、復活の主イエスがすぐそばにおられるにも拘わらず彼らの心は十字架、それも敗北の十字架を背負ったままであったのです。
そんなふたりにイエスは「ああ、愚かな人たち。
預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」25節と言われました。
「愚か人たち。
愚か者!」とはかなりきつい言葉です。
イエス様がここでだけ使われたことばです。
あとは幾つかパウロが使いましたがパウロは時に激しく語る人ですので分からなくもないのですがイエス様が言われたのです。
しかし、イエス様がこのふたりに「愚か者」と言われたのは、このふたりを叱るためでも、まして馬鹿にするためではありません。
むしろ、何としても教え、導き、ご自分に出会わせるためでした。
復活の信仰を持たないまま自分たちの村に帰っていこうとするこのふたりを真理に導き、その心に光を与え、信仰に導いて、エルサレムの弟子たちのもとへと連れかえすために、イエス様は彼らに現われ、そう語っておられるのです。
山登りをしていて、知らないであと数歩いくと崖から落ちてしまう所にいる人を見たら私たちは何と言って声をかけるでしょうか?「ちょっと先は危険ですよ。
止めておいた方が良いと思いますがね。
どうしたもんでしょうかね〜」とは言わないと思います。
「止まれ!つべこべ言わないで帰って来い!」と言うと思います。
主イエスは彼らに愚か者と言われ、続けて「十字架は栄光を受けるためにどうしても通らなければならない」ことを語られました。
さらに主イエスについて聖書全体が語っていることを説き明かされたのです。
もちろん、この聖書全体とは旧約聖書のことを意味しますし、主イエスについてのこととは多くは救い主についての預言の箇所であったということです。
イエスが語られたことの多くは彼らが以前主イエスから教えてもらったこと、聞いたことであったでしょう。
しかし、改めて彼らは教えられたのです。
初めて聞いたことではなくすでに聞いたことがあるがそこまで思いが至らなかったのです。
後々、聖書を教えてもらいながら心は燃えていたと言いますがすでにみことばをしっかりと聞き、信仰があればこそ感動したのです。
聖書のことばによって真理はいつの時代、どの状況いかんに限らず不変です。
自分たちの村に着いたふたりは、今まで一緒に歩いてきた旅人に、それがイエスだとは気付かずに「いっしょにお泊まりください。」と願いました(29節)。
この「泊まる」という言葉は聖書では特別な意味を持っています。
これは単に、旅行者が、誰かの家に泊まるという、物理的なことだけを言っているのではなく、霊的、信仰的に、イエス・キリストが信じる者と共にいてくださり、信じる者がキリストと共にあること、キリストとつながっていることを表わしています。
この言葉がそのような意味で使われている箇所で、いちばん大切なのは、ヨハネ15章でしょう。
その4節でイエスは弟子たちに「わたしにとどまりなさい。
わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」と言われました。
「とどまる」という言葉には、ルカ24:29の「泊まる」と同じ言葉が使われています。
ここから分かることは、わたしたちがキリストと共にいること、キリストがわたしたちと共にいるというのは、キリストとの物理的な距離の近さのことではないということです。
また時間の長さでもありません。
わたしたちがキリストにとどまり、キリストがわたしたちと共にいてくださるというのは、物理的関係ではなく、有機的な関係です。
有機的とは互いに作用し合っているということです。
キリストと信仰者の関係は、ぶどうの幹と枝と同じ関係です。
枝が幹から養分を得て育ち、実を結ぶように、信仰者は、キリストからいのちを受けて、成長するのです。
キリストがわたしたちを生かしてくださり、わたしたちがキリストによって生きるという、命の関係でもあるのです。
イエスは「わたしたちと一緒にお泊りください」との言葉に答え、ふたりの家に入りました。
そして、食卓に着いて、パンを祝福されました。
そのときの様子を、聖書はこう書いています。
「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。
するとイエスは、彼らには見えなくなった。」これは、主の晩餐のときの言葉そのものです。
しかし、あの最後の晩餐には十二弟子しかいませんでしたから、このふたりが、パンを祝福して渡す姿を見て、それがイエスだとわかったというのは、イエスが五千人の群衆にパンを分け与えられたときのことを思い起こしてのことだろうと思います。
彼らの目が開かれた時にイエスが見えなくなったとは不思議な表現ですがどこにイエスは行かれたのでしょうか?主イエスは彼らの内側におられます。
ふたりは、今まで一緒にいてくださったお方がイエスだったと分かったとき、すぐさまエルサレムにとって返しました。
イエスには「そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたからも」(29節)と言って引き止めたのに、自分たちは夕暮れの道を駆けて、エルサレムにいる他の弟子たちのところに向かって行きました。
せっかく自分の家に帰ってきたのに、なぜでしょう。
イエスに出会ったとき、自分たちの帰るべきところがエマオではなく、エルサレムであることが分かったからです。
ふたりは、エルサレムで、イエスにお会いしたと証しし、他の弟子から、主は生きておられるとの証しを聞きました。
そして、再びイエスにまみえることができました。
それまで復活の信仰を持たなかったふたりは、それを得、名実ともにイエスの弟子、復活の証人としての新しい出発をしたのです。
わたしたちも、このふたりのような体験をしたいと思います。
たとえ、その心が、生活が、一時的に神から離れたものになっていたとしても、主は、わたしたちをお見捨てにはなりません。
わたしたちに御言葉をもって語り続け、ご自分のもとへと呼び戻してくださるのです。
その語りかけに耳を傾けましょう。
その招きに答えましょう。
私たちはみことばを読む時に心燃やされたという体験があるでしょうか。
これは何も叫び出すとか踊り出すということではありません。
みことばの真理に導かれて、暗く汚れた心の雲が取り除けられ、心が喜びに満ち、強くされるということです。
他人の証しに励まされることはありますがそれよりも自分の内側でみことばの真理に触れ、活かされることは一番長持ちがします。
もしそれがないなら、パウロのことばによれば「わたし達は、すべての人の中で一番哀れな者です」コリント第一15:20
主イエスは私たちと共にいてくださいます。
どんなに失意と落ち込みの中にあっても私たちをそのまま放っておかれるようなことはありません。
気づけば主イエスはそこにおられるのです。
願わくは主イエスのご臨在に少しでも触れさせていただけるようなこの週を過ごしたいと願わされます。
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