新型コロナウイルスの影響で始めましたライブネット礼拝も今日で4回目になります。
さすがに一か月近くも教会の皆さんとお会いしていませんと日々祈ってはいるもののどうなさっているかなと心配し、気になってしまいます。
このような中で改めて教会とは何だろう?といった素朴な疑問が自分の中に湧いてきます。
また同時にこんなことも思います。
今日のコリント人への手紙もそうですが新約聖書に出てくる初代教会はそれぞれがずいぶんと地理的に離れた場所にありました。
そう簡単に他教会の人と会うことはできません。
また今のように通信技術が発達していたわけではありません。
電話もなければ郵便局などありませんから一年に一度ぐらいの手紙があり、その手紙の中には会ったことも無い人のことが書かれているわけです。
しかし、手紙を読むとパウロ達によって記された手紙が場所はそれぞれ離れていても何か全体で一つの教会のようにも思えてきます。
現代の教会よりも格段に通信手段や交通手段が無いにもかかわらず手紙に出てくる人々がまるで一つの神の家族として過ごしているように映るのです。
一体、現代の教会と何が違うのでしょうか?今日はパウロが記したコリント人への手紙から教会について学びたいと願っています。
まず教会とは何でしょうか?エペソ1:23には「教会はキリストのからだ」であると書かれています。
そして今日のコリント第一12:27には「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」とあります。
つまり私たち一人一人が各器官、からだの一部分としてキリストのからだを形づくっているというのです。
クリスチャンなら何度も聞かれたことと思います。
教会は建物ではない。
私たち一人ひとりなんだと。
さらに12:12には「ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。」とあります。
確かにからだはいろんな部分によって成り立っているけれどもその一つの部分はまたからだ全体を反映しているとも言われています。
つまり一人一人個性があって異なった存在でありながらそこに一致あるいは統一性があるというのです。
卑近な例かもしれませんが家族や身内の話を他人にする時によくちょっとけなすような言い方をする時がありますよね。
「主人は全然気が利かないのよ」「家内はおっちょこちょいで」「うちのドラ息子は」といったように。
では、それを聞いていた人が「その通りですね」とか「私もそう思っていました」なんて言うと普通はカンカンに怒ったりしますね。
どうしてでしょうか?やはりいい悪いは別にしてそこに家族とか仲間といった帰属意識が働くからではないでしょうか。
相手のことばを自分にも言われているように受け止めたり、自分の属している領域にダメージを与えられているように受け止めてしまうからです。
パウロは教会とはそのようなものであると言います。
互いに異なっていながら同じ方向を見、同じ反応をする。
一人一人には教会の益となるように様々な賜物が与えられていると12章には書かれています。
聖霊なる神様はその賜物を通して様々な働きをなさいます。
ただそれと同じく、いやそれ以上に大切なことが12:3節後半のことばで言い表されています。
それは「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」ということです。
どんなに素晴らしい賜物があったとしても、その前に私たちが「イエスは主です」と言うことができるというのは実は非常に大切なことであり、大きな恵みでもあるのです。
「イエスは主です」と言うことはことばを語るだけではありません。
イエスが主なら自分は従となる。
つまりイエスに従っているということです。
イエスは主ですと言いながら自分の時間や与えられたものを自分の好きなように使っているならそれは自分自身が主なのであって、イエスが主とはなっていません。
12章にはこの後、賜物とからだの各器官として一人一人のことが出てきます。
一人一人には賜物はもちろん、性格や考え方様々な違いがあります。
それらの違いを苦も無く受け入れられる人もいれば、受け入れること自体を苦痛と感じる人もいます。
ただそれよりも前に私たちが本当に心の底から「イエスは主です」と告白できているでしょうか。
教会をからだとして考えるなら、一人一人は聖書にあるように各器官です。
目や耳、胃や腸や様々な臓器です。
そして聖霊によって「イエスは主です」と告白できるようになるというわけですから、聖霊の働きと「イエスは主です」との告白は言わば人の中で流れている血液のようなものです。
からだのどんな部分にも同じ血液が流れているのです。
頭はB型で手足はA型、内臓はO型なんてありえません。
ですからどんなに賜物が異なっていようと様々な違いがあったとしても同じ御霊が働いて共に「イエスは主です」と告白し、どこでどういう形で洗礼を受けようと同じ御霊によって洗礼に授かっているのです。
同じ御霊が働いていることによって同じ神の家族の一員とされているのです。
次にキリストのからだである教会についてパウロが教えていることは、からだは多くの部分によって成り立っているということは、教会のことを説明するための単なる喩え、比喩として語られているのではないということです。
パウロは教会はからだのようなものとは言いません。
教会はキリストのからだなのです。
からだというのが単なる喩えであるならば、そこで語られているのは、「我々は一心同体だ」ということと同じです。
要するに、みんなで力を合わせて一つの目的に向かって努力しよう、ということが言われていることになります。
そうではなくパウロが語っているのは、「私たちは一つのキリストのからだに結び合わされ、すでにその部分となっている」という事実です。
そしてそのことがどのようにして実現したのかを語っているのが、次の13節なのです。
「私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」。
ここには、バプテスマ、洗礼のことが語られています。
洗礼は私たちの決意表明の印ではなくて、神様が、聖霊によって私たちをキリストへと浸し(バプテスマとは染めるという意味です)、その体の部分として下さることの印なのです。
しかもそこで働くのは「一つの御霊です」。
洗礼式と聖餐式において私たちは同じ御霊を飲んだのです。
御霊によって「イエスを主です」と告白し、御霊によってどのような違いがあっても一つのからだとしてつながっているのです。
14節以下にからだの各部分について詳しく書かれています。
これもまた単なる比喩ではありません。
もし比喩として読んでいくなら、ここにいろいろと語られていることは結局、「お互いに他の人のことを尊重しながら仲良く一緒にやっていきましょう」という道徳的な教え、教訓に終わってしまいます。
神の御霊がキリストのからだなる教会で働いているわけですから、その器官あるいは部分である私たち一人一人のクリスチャンにも御霊が働いているのです。
その器官つまりキリストのからだを成り立たせる私たち一人一人についてみことばは何を教えているのでしょうか?
<神にあって自分を受け入れる>
15、16節の足が『わたしは手ではないから、からだに属さない』、耳が『わたしは目ではないから、からだに属さない』とはどのようなことなのでしょうか。
人と自分とを見比べて、人に与えられている賜物や力の方が自分よりも優れていると感じ、どうせ自分はあの人にはかなわない、私なんか役に立たないんだとひがみ、いじけてしまうことです。
そういう気持ちは私たちの誰もが抱くことがあると思います。
「隣の芝生は青い」と言いますが、それは持ち物、財産だけのことではなく、人に与えられている賜物、能力や働きは立派に見える、それに比べて自分の賜物、能力はちっぱけな、役に立たないものに思えてしまうのです。
そのようなひがみ、いじけた思いに対してパウロは、17~20節でこう言います。
「もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。
もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。」。
みんなが同じである必要はない、みんなが同じ働きをするようになってしまったら、からだというものは成り立たないではないか。
私たちそれぞれにそれなりの賜物、力、働きが与えられているのだ。
それは神様が、様々な違った者たちによって一つのキリストのからだを作り上げようとしておられるということです。
そしてそれぞれにイエス様が与えてくださる豊かな顧みと報いは片寄ってはいません。
真実な神様はえこひいきされるようなおかたではないのです。
神にあって自分を受け入れるとは神様が自分を見ておられるように自分を見るということです。
それがないといつも他人と自分を比べたり、よく考えると自分の中にある「もう一人の自分」によって現実の自分を責め立て続けるということになります。
<神は弱い部分を大切になさる>
21節には今度は、「目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません。」と語られています。
これも同じように、自分と人とを見比べていく中で起こることですが、先程とは逆に、人の賜物や働きを価値のないもの、役に立たないものとして批判し、軽んじることです。
これもまた、私たちの中でしばしば起こることです。
ただ、先程のいじけた思いやひがみと比べて、こちらの方はあまり意識されません。
なぜなら、いじけた思いやひがみは、自分がいやな悲しい思いをします。
つまり心傷つくわけですがこちらの方は自分が傷つけているとはあまり意識していないからです。
パウロは22節以下でこう言っています。
「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。
こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。
しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」。
ここでも「からだ」が大事な役割を果たしています。
私たちは、自分のからだの中で、見劣りがする部分、弱い部分があるとしても、それを要らないと言って切り捨てたりはしません。
むしろ、弱いところは他の部分の働きによって補っていくのです。
一つのからだというものはそのようにして成り立っているのではないか、とパウロは言います。
「互いにいたわり合う」とありますがこの言葉は心で思うというよりも実際に手足、からだを使って犠牲を払うという意味があります。
もしも神様が、優れた者、強い者のみを愛し、そういう者を集めてキリストのからだを造り上げようと思われたなら、キリストの十字架はいらなかったでしょう。
行いによる義を強調する律法があれば十分だったのです。
律法をきちんと守ることのできる強い者、優れた者だけを相手にしていればよかったのです。
しかしそうだったら、私たちの内の誰が救いにあずかれたことでしょうか。
私たちがこうして神様の救いへと招かれ、教会へと集められているのは、神様が、弱く、罪深く、問題に満ちた私たちを、それゆえにこそかえって深く慈しんで下さり、独り子イエス・キリストの十字架の死によって救って下さったからではないでしょうか。
キリストの体はこの恵みによって形造られていくのです。
<共に苦しみ、共に喜ぶ>
これらのことをまとめて、26節には「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」とあります。
これも単なる比喩ではありません。
苦しみも喜びも互いに分け合っていこう、という勧めではないのです。
私たちは、体の中のほんの一部が痛んだだけで、それでからだ全体の具合が悪くなり、元気がなくなってしまうことを知っています。
歯が痛むだけで、手や足だってまともに動けなくなることがあります。
あるいは喜びにしても、からだのある一部分だけで喜ぶということはありません。
喜びはからだ全体のものです。
健康な教会というのは集う誰もが力があって才能がある人にあふれているということではありません。
苦しみも悲しみも、そして喜びもからだ全体で感じられ、表現できるということが健康な教会のしるしです。
一つとされていたらそうなるものなのです。
このように考えてくると、パウロがここで語ろうとしている最も大事なことは何かが明らかになってきます。
それは即ち、キリストのからだの部分として、他の兄弟姉妹と共に歩むことです。
教会においてどんなよい働きができるか、ということが大事なのではないのです。
神様は、私たちが、どんなに弱い、みすぼらしい、見劣りがする者であっても、他の兄弟姉妹と共にキリストのからだの部分として生きることをこそ喜ばれます。
反対に、どんなに優れた能力を持ち、立派な奉仕をすることができるとしても、それが自分一人の、個人プレーになってしまい、兄弟姉妹と共に歩むことになっていないならば、神様はそのような働きをお喜びにはならないのです。
今日はキリストのからだなる教会について共にみことばを見てきました。
キリストのからだなる教会の一部となっていることにどれぐらい実感があるでしょうか。
もし無いとするならそれはどこに問題があるからでしょうか?共に「イエスを主です」と告白出来ることに驚きと感動があるでしょうか?自分の弱さ、人の弱さを見る時にどのように反応しているでしょうか?共に苦しみ、共に喜ぶ者として共に兄弟姉妹と歩んでいる思いがあるでしょうか?キリストのからだなる教会につながっているという自覚はあるでしょうか?すべての試練は私たちが神の家族として成長するための機会です。
共に神の家族として成長するこの週の歩みでありたいと願わされます。
祈ります。
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