「だから、わたしはあなたがたに言います。
いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。」とイエス・キリストは語られました。
他の聖書では「心配する」は「思い煩う」「思い悩む」と訳されています。
その言葉の意味は「ひもや糸がもつれる」ということです。
皆さんも時々経験されたことがあると思います。
なかなかほどけないとイライラしてきますよね。
力めば力むほどますますほどけないこともあるものです。
気になってしょうがないということもあります。
もっとも今の日本の社会では、主イエスが言われた「いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりする」ということばはそのままでは私たちの生活の実感と合わなくなっていると思います。
「何を食べようか、何を着ようか」という心配は、現在の私たちの生活においては、全く別の意味で存在しています。
現代は着るもの、食べるものすべてあふれているような時代ですから食べるもので悩むと言えば、今日は中華が良いかな、日本食?ダイエットを考えたものにしようかといったことが悩みでしょうし、着るものと言えば、今日は色合いはベージュ系でまとめてみようとか、カジュアルな恰好にしておこうとか、そういったことで悩むのではないでしょうか。
主イエスがこれを語られた時の状況とは全く違います。
これはその日その日をどうやって生きていくか、どういのちをつないでいくか、という心配なのです。
「いのちのことで、からだのことで」という言葉がそれを表しています。
その日生きるための食べ物、着物にも事欠くような生活をしている人々に対して、主イエスはこの言葉を語られたのです。
ではそういう私たちには、いのちやからだのことでの深刻な思い悩みはもうないのかというと、そんなことはありません。
私たちもまた、まさにいのちやからだに関わる深刻な思い悩みを、それぞれ様々な仕方でかかえています。
厳しい経済状況の中で、特に今は新型コロナウイルス感染のことが大きな問題となっていますがいつ仕事を失うか、収入の道を奪われるかという不安があります。
既に職を失った人や、これから就職しようとしている学生であれば、就職先が見つかるだろうか、という心配があるでしょう。
退職していわゆる悠々自適の生活を送っている人であっても、老後の生活への不安は尽きません。
介護を必要とするようになったら誰が面倒を見てくれるのか、施設に入るとしたらどれだけお金がかかるのか、子供や孫たちに迷惑をかけたくない、そのようなことを思い悩んでいる人は多いことでしょう。
さらに、人間関係の中での思い悩みもあります。
家庭においても、職場、学校においても、地域社会においても、人間関係のストレスが非常に高まっています。
ちょっと前までは家族団欒の時が持てないと言っては不平不満を言っていた人が、今は一日中、家族毎日同じ顔を突き合わせているのでどうしたら離れていられるのか、じっとしていないでどこかへ出かけてくれないものかと悩んでいます。
そのような中で私たちがかかえる思い悩みは複雑かつ深刻であり、まさに生き死に関わる問題です。
さらに加えてからだについての思い悩みがあります。
病や老いや障害による思い悩みは勿論のこと、いかに若く、美しくあるか、若さや美しさをいかに保つか、ということにおける思い悩みもあります。
私たちはそれぞれに、人にはなかなか分かってもらえない思いや悩みをかかえて生きているものです。
確かに、私たちが抱えている思い悩みの内容は、主イエスの当時の人々が抱いていたものとは全く違うでしょう。
しかしどちらも本人にしてみれば深刻な、生きるか死ぬかの問題ではないと思います。
人間は、それぞれの時代のそれぞれの社会において、それぞれなりに、いのちとからだのことでの深刻な思い悩みを抱いているのです。
そういう私たちに、主イエス・キリストは、「心配するな」とおっしゃいます。
これは驚くべき言葉です。
驚くべきことばですが、また考えようによっては驚くべき無責任な言葉とも言えます。
私たちが、悩み苦しんでいる人に、「心配するな」と言うとしたらどうでしょう。
その人との間に余程の信頼関係があり、その人のかかえている問題を本当によく知っており、その苦しみ悩みに深く同情し、親身になってそれを共に担っている、という事実があればよいでしょうが、そうでない限り、「何も分からないくせに無責任なことを言うな」と反発されるに違いありません。
しかも主イエスは、「心配しなくて良いんですよ」と言ったのではありません。
「心配するな」と命令なさったのです。
何を根拠に、そんな驚くべき命令を語ることができるのでしょうか。
続く23節で主イエスは「いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」と言われましたがこれが根拠となりうるでしょうか。
確かに食べ物はいのちを養うためにあり、衣服はからだを守るためにあるのだから、食べ物や衣服よりいのちやからだの方が大切なことは分かる。
しかしそのいのちを養いからだを守るために必要な食べ物や衣服がなくて心配しているところにこんなことを言われても何の解決にもならないと思うのです。
心に浮かぶのは「そんなことは分かっている」ということばでしょう。
ではこの23節で主イエスはいったい何を言っておられるのでしょうか。
それは、その後を読み進めていくことによって分かってきます。
24節以下には、烏のこと、ゆりの花のことを考えてみなさいという主イエスの教えが語られています。
烏やゆりの花について、何を考えてみよと言われているのでしょうか。
それは、烏は種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たないが、神様が彼らを養っていてくださる、ということです。
ゆりの花についても、紡ぎもせず、織りもしない、しかも明日になれば炉の燃料にされてしまうような花を、神様が美しく装い、咲かせて下さっていることを考えなさいと言われています。
つまり烏も野の花も、どちらも神様が養い、装って下さっていることを主イエスは私たちに見つめさせようとしておられるのです。
主イエスが語っておられるのは、鳥は何の心配もせず悠々と空を飛んでいるではないか、花も何の苦しみも持たずに美しく咲いているではないか、そういう姿を手本として、あなたがたもくよくよしないで思い悩まずに歩みなさいということではありません。
そうではなくて鳥も野の花も、神様が養い、装って下さっている、そのことから、私たちのいのちもからだも、神様が養い、装って下さっていることを知りなさい、ということなのです。
24節の後半に「あなたがたは、鳥よりもかるかにすぐれたものです」とあり、28節には「きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。
ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。」とあります。
神様は人間にたいして特別によくしてくださるのです。
天地創造のみ業の最後に人間が創られたのは、神様がこの世界と全ての被造物を、人間が生きるための場として、また人間を養い生かすために創って下さったという恵みのみ心の現れなのです。
この世界の全てをお創りになった神様が、あなたがたのいのちとからだを養い、装い、守って下さっている、だから思い悩むな、と主イエスは言っておられるのです。
そうすると、この「心配するな」という命令は、要するに「神様を信じなさい」という命令なのだ、ということが分かってきます。
ですから主イエスは28節の終わりで、「ああ、信仰の薄い人たち」と言っておられるのです。
心配するのは信仰が薄い人たちです。
「薄い」と訳されているのは「小さい」という言葉ですが、それは信仰の大きさを他の人と比較しているのではありません。
信仰が小さいというのは、信仰が信仰として働いていないということです。
信仰が働くとは、簡単に言えば、本当に信じている、ということです。
それが働いていないということは、本当に信じてはいないということです。
つまり信仰は、大きい小さい、厚い薄いというものではなくて、「信じている」か「信じていない」かのどちらかなのです。
神様を信じている人は、神様が自分のいのちとからだを養い、装い、守って下さると信じているのであって、そこに心配からの解放が与えられるのです。
30節にそのことがよりはっきりと語られています。
「これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。」とあります。
この世の異邦人とはこの場合、創造主なる神を信じていない人ということでしょう。
神様を信じていない人は自分で自分のいのちとからだとを養い、装わなければならないと思って、食べ物や衣服を切に求めていきます。
しかしあなたがたは異邦人とは違うと主イエスは言われるのです。
もちろんだからと言ってそういったものが不必要だとは言っておられません。
30節の後半に「あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。」とあるように神はご存知なのです。
ただ異邦人は食べ物や衣服に「いのち」つまり自分の全てがかかっていると思っている。
だから切にそれを求め続けるということです。
ですから、「心配するな」「思い悩むな」という主イエスの命令は、あなたはこの二つの生き方の内どちらを選ぶのか、という問いなのです。
私たちがいのちとからだのことで思い悩みつつ生きるか、そういう思い悩みから解放されて生きるか、それは結局、天の父なる神様を信じるか信じないかということなのです。
私たちが自分のものとして獲得し、蓄え、持っているものが、私たちの人生を、いのちを、本当の意味で養ったり装ったり守ったりはしないということです。
そういうものを切に求めて思い悩んでも、それで、25節の言葉を用いれば、自分のいのちをわずかでも延ばすことはできないのです。
私たちのいのちとからだを本当に養い、装うのは、そのいのちとからだを創って与えて下さり、人生を導き、そしてお定めになった時にそれを取り去られる主なる神様なのです。
その神様を信じ、その神様が父としての愛によって必要なものを与えて下さると信頼して、いのちとからだを委ねて生きるところにこそ、思い悩み、不安、心配からの解放が与えられるのです。
ここで少し不安、心配について考えてみたいのですが不安な時、心配事がある時には私たちの心には否定的な感情が強く起こります。
いやな気持になります。
ですから当然、そんな気持ちを取り去りたい、早く脱出したいと思っていろんなことをします。
大きく言って二通りのどちらかを取ります。
一つは必死にその問題に取り組み、解決のために行動することです。
これは真面目で良いのですが短所としてあまりにも大きな問題や理不尽な問題と対峙する時に疲れ果てたり、病気になったり、それをうまくやりこなせない自分を赦せなくて自分を責め立てて苦しんでしまいます。
またもう一つは問題と取り組むのではなく、その問題を見て見ぬふりをしたり、他に責任転嫁しようとすることです。
つまり前と比べて楽な道を進もうとします。
ただ短所としては見て見ぬふりをしても現実は変わらないわけですから、逃げ回ることに疲れてしまったり、心が止まってしまうということが起こります。
ですから不安を取り去ること、心配しなくていいようになることだけを考えていても本当の解決にはなりません。
さらに言うなら、こういう感情の問題は次から次へと起こってきますから終わりがありません。
最初に心配する、思い煩うという意味はひもや糸がもつれることと言いましたが、もつれたひもをほどき続けて人生が終わってしまうというのはどうなんでしょうか?主イエスが「心配するな」と言われたのはあなたの人生から心配、不安、思い煩いそのようなものを私が取り除いてあげるからという意味で言われたのではありません。
主イエスは「私を信じなさい」と言われたのです。
31節には、「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。」とあります。
「心配するな」というのは否定的消極的な命令ですが、これは、肯定的積極的な命令です。
この「神の国を求めなさい」という教えも、私たちに対する命令です。
あなたが本当に求めているものは何か、神の国、天の父である神様の御手に委ねて生きることか、それとも自分で必要なものを手に入れていのちとからだを養い、装うこと、つまり神様ではなくて自分の支配を求めて生きているのか、という問いがここにもあるのです。
私たちを本当に愛し、いのちとからだを与え、それを養い、装って下さる父なる神様を信じ、その御手に委ねて生きることこそ私たちが本当に求めていくべきものです。
この神様の御手の中で生きてこそ、「これらの物は、それに加えて与えられる」のです。
「恵み」とは神様が私たちに与えてくださるもの全てです。
いのちとからだに必要なものを神様は与えて下さっています。
また賜物、才能、個性これらも恵みとして与えてくださっています。
さらに罪深い私たちは素直に神様を信じようとはしないので不安や思い煩いという心の働きを通して、神を知るようにとしてくださっています。
その意味において全ては神の恵みなのです。
そして神はご自身の愛を表わすために御子イエス・キリストを私たちの罪を贖うために十字架につけらました。
神の最高の恵みです。
どうかこの新しい週の歩みも神を信じることによって与えられる恵みに気づき続けてゆくことが出来るように祈りつつ歩んでまいりましょう。
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