1907年のことです。
その二年前の5月9日になくなったアンナ・リーブス・ジャービスさんの召天記念会が行われていました。
その記念会のために、美しい花が飾られていたのですが、娘のアンナ・メイ・ジャービスさんは「母の愛はこの花のように純粋で美しかった」と、母親の思い出を語り、そのような母親を与えてくださった神に感謝しました。
娘アンナ・メイ・ジャービスさんのこのスピーチは、記念会に来ていた人の心を打ち、翌年からフィラデルフィアでは、母親に感謝する「母の日」が守られるようになりました。
母の日は、次第に広まり、1914年に、ウィルソン大統領によって、国民の祝日に定められました。
私たちも、母の日が来るたびに、自分の母親のことを思い、また、私たちに母親を与えてくださった神の愛を思い感謝したいと思います。
母の日というと、婦人方だけに注目が行くようですが、男性だって母親から生まれたわけですから、女性も男性も一緒に、母の日を祝いたいと思います。
母の日を祝うにあたって、私たちが心に覚えたいのは、私たちが母親から受け継いだものを感謝するということです。
聖書に「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか」(Iコリント4:7)ということばがありますが、私たちが「自分のものだ」と言っているものの多くは自分で勝ち取ったものというよりは、母親から与えられたものです。
私たちはどんなものを母親から受けたでしょうか。
第一にそれは、私たちのからだです。
私たちの母親は、私たちのからだをその胎内で9ヶ月間はぐくんでくれたわけですから、そのことを感謝しなければなりません。
第二に、私たちは母親から多くの実際的な世話を受けました。
人間ほど手間のかかる動物はいないと言われますが赤ちゃんは生まれてから一年近くも立って歩くことができず、親から食べさせてもらわなくてはなりません。
他の動物の赤ちゃんが見る間に自分の足で立ち上がり、間もなく自分で餌を食べることができるのと大違いです。
さらに三歳になっても、五歳になっても、七歳になっても、人間は一人前ではありません。
親の世話がなければ何もできません。
二十歳を過ぎて、あるいは三十をすぎて、やっと親から独立できるのですから、本当に、人間は「超」未熟児です。
そんな私たちを、世話してくれた母親の恩を忘れてはならないと思います。
第三に、私たちは母親から、からだとその世話だけでなく、精神的なものを受けています。
学校や部活で何かが出来た時「良かったね」と言って誉めてくれた母親、逆に、うまくいかなかった時も「大丈夫や。
また今度頑張ればええから」と慰めてくれた母親、そんな母親のやさしさによって、私たちは人生を生き抜く力をあたえられて来ました。
それぞれ、環境も、事情も違いますが、私たちは、同じように、母親から多くの励ましや慰めを受けて来ました。
それを心の糧として大人になることができたと思います。
また、皆さんの中には、母親の愛を直接には受けられなかった方もいらっしゃるかと思いますが、その場合でも、母親に代わって育ててくれた人、母親のような愛情を注いでくれた人が、身近にいてくださったことと思います。
神の家族である教会にも「教会のお母さん」と呼んでもいいほどに、私たちのことを気遣い、世話し、慰め、励まし、そして私たちのために祈っていてくださる方が多くいらっしゃいます。
そのことにも感謝しましょう。
さて、第四に、母親は精神的なもの以上のもの、つまり、霊的なものや神を信じる信仰を子どもに、孫に与えることができるということが聖書に書かれています。
今日の個所で、使徒パウロは弟子テモテにこう書いています。
「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。
そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」(IIテモテ1:5)信仰は、個々人が神に対して持つものですが、それと同時に信仰が母親から子どもへと伝えられていくという面もあります。
人々は「信仰」というと、仏教やキリスト教、イスラム教と言った宗教の教えを受け入れること、それを信じ込むことだと考えています。
しかし、本来の意味での信仰とは「信頼」ということです。
社会は信頼関係で成り立っています。
家庭では夫が妻を、妻が夫を信頼しなければ、親が子を、子が親を信頼しなければ、その家庭はどんなにお金があり必要なものが揃っていても、家庭として成り立ちません。
会社でも上司が部下を、部下が上司を信頼しなければ仕事は進みません。
神を信じる信仰は人間の世界に見られる信頼を飛び越えたものではなく、その延長上にあると思います。
以前、米国カリフォルニアにあるミッション系の高校で信仰に関する様々な調査がなされました。
その中の一つの調査で神様をどのように理解し、受け止めるかということと親に対するイメージは非常に似た部分があることが分かりました。
つまり親との関係が神様をどのように見るかということに大きな影響をあたえているということです。
ですから、家族の中で互いに信頼しあうことを教えられてきた人は、私たちが信頼して決して裏切られることのない神を知った時、素直に、この神に信頼し、この神の信頼に答えようとすることができるのです。
こういったことから、子どもは母親に信頼することを通して神への信頼を学び、母親がいろんな場面で神に信頼しながら生きていく姿を見ることによって信仰に導かれていくのです。
もちろん全ての人がそうだというわけではありません。
ただ大きな影響を与えているのは確かだと言うことです。
使徒パウロは、テモテの中にやどっている信仰は、最初おばあさんのロイスと、お母さんのユニケに宿ったものだと言っています。
ここにはテモテの父親の名前がありませんが、テモテの父親はギリシャ人で、おそらくテモテが成長していく時にはまだ信仰を持っていなかったのでしょう。
もちろん、信仰を受け継がせるということにおいて父親の役割も大きいのですが、母親の役割はもっと大きいです。
子どもは父親と過ごす時間よりも、母親と過ごす時間のほうが圧倒的に多いからです。
母親が、普段の生活の中で、神に祈り、助けと導きを求めて生きている、その姿が子どもに、人生において一番たいせつなもの、信頼、信仰を教えるのです。
このように私たちは母親から多くのものを受け継いでいます。
たとえ、私たちが母親とうまくいかなかった苦い経験を持っていても、母親に反抗してきたとしても、そうした経験や反抗を通しても、私たちは自分の人格を磨き、また自立、独立していくことを教えられてきたのです。
母親に多くのものを負っている私たちは、聖書が教えるように「あなたの父と母を敬え」という神のいましめを、この日、心にしっかり留めておきたいと思います。
母の日に私たちは母親から受けたものを感謝します。
しかし、それと共に、私たちに母親を与えてくださったことを神に感謝します。
私たちは、母親から多くのものを受けましたが、その母親の背後にいて、母親と変わらない愛、いや、母親以上の愛で私たちを愛していてくださった神に感謝と賛美と礼拝をささげたいと思います。
私たちは、母親からこのからだを受けました。
けれども、私たちを母の胎内で形作ってくださったのは、神です。
聖書に「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。
私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」(詩篇139:13-16)としるされている通りです。
女性の方が男性よりも神様を信じやすいとよく言われます。
これは子どもを宿した時にいのちはまさに人間の力を超えたところから来ていることを女性は直感的に分かるからだと思います。
神は言われます。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」(イザヤ49:15)聖書は、神を「父」であると教え、私たちも神を「父なる神様」と呼びます。
確かに神は私たちの父であり、私たちを大きな愛で導いてくださいます。
しかし、それと同時に神はまるで母親のようにも、私たちのことを事細かに心配し、世話してくださるお方でもあるのです。
両親の愛に恵まれた人は、神があなたの両親のように、またそれ以上にあなたを愛していてくださることを知りましょう。
そうでなかった人は、人間の愛に勝る神の愛で心を満たしていただきましょう。
神の子となって、神にあなたの父とも、母ともなっていただき、神の愛のうちに憩いたいと思います。
私たちは、神の大きな、深い愛をうけてはじめて「父、母を愛し敬う」という神の戒めを守ることができるようになるのです。
実は私がキリスト教と出会い、教会に導かれたのは直接的には近所の母親同志が親しい人の息子さんが声をかけてくれたからです。
しかし、その後、何事にも三日坊主の私が教会に通い続けた理由は自分の家庭が暗く、親の夫婦喧嘩が絶えなかったのが一つの大きな理由です。
私にとって、教会は暖かくて居心地の良い世界、自分の家庭とは対照的な世界と感じていました。
土曜日の午後に高校生の集会が毎週開かれていたのですが夕方暗くなって帰宅する時はいつも心まで暗い気持ちになっていたことを思い出します。
ですから実際の親と聖書の神は切り離された存在だったと言えます。
当時、十戒の「あなたの父と母を敬いなさい」ということばが教会の集会で言われるといつも反発していました。
いつも心に浮かぶ言葉は「敬われるような父と母だったら敬います」でした。
ずいぶんと辛らつですよね。
しかし、その親から生まれたということは否定しがたいことですからその葛藤で自分なりにずいぶんと悩みました。
やがて自分に信仰が与えられクリスチャンとして歩み始めて、私の考え方は変えられてゆきました。
と言うより癒されていったと言った方が良いかもしれません。
クリスチャンになるまで自分は親に理想の親となることを要求していたと思います。
だから現実との落差で落ち込んでいたのです。
それは視点を変えれば結局、自分自身が神のような視点に立ってものごとを見、結果として親をそして自分を赦せないということが起こっていたと思います。
しかし、罪深い私を赦すために主イエスが十字架について死なれ、そして私は救われキリスト者となった。
その救いの流れの中で罪深い自分が赦されていることを通して、人の不完全さを受け入れることが段々と出来るようになりました。
それは具体的には親の弱さや足りなさを優しく見ることが出来るようになったばかりか、神様がこの私を愛しておられるのと同じほどに親を愛しておられると思えるようになったことに表れています。
以前は単に「父と母を敬え」と言われても何とも思わず、むしろ反感を覚えていた時分ですが神様が「この私があなたと同じように愛している父と母を敬いなさい」と言っておられるので自然と受け入れられるのです。
神様は私に親を通していろんな良きことをしてくださいました。
神様を知らなければ親の愛にも気づかずに終わったことでしょう。
今日は母の日です。
母の愛から神の愛へと導かれ、神の愛から父母への愛へと導かれてまいりましょう。
コメントをお書きください