今日の箇所は、主イエスが弟子たちに対して話しておられる中に、突然群衆の中のある人が割り込んできて、自分の願いを語り、主イエスがその人に答えられる場面です。
この人は主イエスに、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」(13節)と願いました。
主イエスに財産についての相談にのってもらおうなんてお門違いだと思うかもしれませんが、これは当時の人々の感覚からすれば当然のことでした。
当時のユダヤ人の間の宗教的指導者というものは、律法を教える者であり、律法に基づいて人々の生活の指導をしていました。
彼らはこのような民事的な事柄、財産問題なども律法に基づいて指導し、もめ事の調停をしていたのです。
主イエスもそういうラビの一人と考えられていましたから、このようなことを願い出るのは普通のことであり、またそれはこの人が主イエスをまずラビとして信頼していることの印でもあるのです。
しかし主イエスはこの求めを、「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」(14節)と言って退けました。
これは、主イエスがこの人の申し出をけんもほろろの対応されたのではありません。
私はラビそして他の宗教的な指導者がしているような働きをする者ではないのだと言っておられるのです。
しかし主イエスは、彼の願いを退けてそれでおしまいにはなさいませんでした。
続けて群衆一同に向かって、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」(15節)と言われたのです。
群衆に対して言われていますが遺産を分けてくださいという人の話に続けて言っておられますから彼の願いに応えて言っておられるわけです。
主イエスからそんなことを言われた彼はおそらく心外だったでしょう。
「私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と願った彼がどのような状況にあったのか、正確には分かりませんが、想像できることは、「兄弟」と言われているのが長男であり、彼は次男以下の立場だったのだろうということです。
当時のユダヤの遺産相続においては、長男が先ずは遺産を受け継いだ後、他の兄弟に分け与える義務がありました。
ですからこの人からすれば分け与えられたものを受け取ることは自分の正当な権利です。
その正当な取り分を兄が渡してくれないので彼は主イエスにあのように願ったということです。
そうするとむしろ長男の方が貪欲ではないのかと思われるわけです。
もしこの場合、普通のラビらの宗教的指導者なら長男に対して、弟からちっとも自分達に財産を分けてくれないと私のところに訴えがありましたよ。
あなたも貪欲にならずにもっと分けてあげなさい、とアドバイスすることでしょう。
しかし主イエスはこの弟の訴えから、群衆に対して「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」と言われているのです。
そうするとこの「貪欲である」ということばをどのように理解するかがこの箇所を理解するための鍵となります。
私たちは普通、貪欲とは、自分に与えられているものを越えて、もっともっと求め、そのためにだましたり人のものを奪ったりすることだと思っているところがあります。
ところが主イエスは、「どんな貪欲にも注意しなさい」に続いて、「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」とおっしゃいます。
「貪欲」を、自分の分を越えて欲しがること、と理解していたのでは、ここはつながりません。
人のいのちはその人が持っているものが多くても少なくてもどうすることもできないということと、自分の分を越えて求めることとは関係がないからです。
では主イエスがここで「貪欲」と言っておられるのはどういうことでしょうか?それは貪欲とは自分の正当な取り分を越えて欲しがることではなくて、自分が持っているものによって自分のいのちを得ることができる、生きることができるとどっぷりと思いこんでいることなのです。
数量の問題というよりもその考えに深く固執していることと言えます。
ですからここで「貪欲」ということばを理解するために意識を変える必要があります。
「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」という言葉の「財産」と訳されている言葉はお金という意味だけではありません。
もとのことばは所有物、彼との関わりで存在しているものという意味です。
ですから能力、才能も一種の財産ですし、健康や体力もそうです。
そのような財産を有り余るほど持っていたら、人生どんなによいだろうかと私たちは思います。
また私たちはそれぞれに与えられている環境や状況によっても人生を左右されます。
家庭環境や職場の状況、生きている時代の状況などにおいても、恵まれている人もいればそうでない人もいる。
そういう点において、豊かに持っている人と持っていない人の違いを感じます。
しかし主イエスはここで、それらのものを有り余るほど持っていたとしても、それによって人のいのち、人生が決定づけられることはないのだと教えておられるのです。
そして、それらのものによっていのちが、人生が決定づけられると思ってそれらを執拗に求めることを「貪欲」と言っておられるのです。
主イエスのところに相談にやってきたこの人は、自分の正当な取り分を超えて何かを求めていたわけではありません。
兄の分も全て私によこせなんて言っていません。
しかし、それが無いなら自分の人生が成り立たない、それをもって自分の人生を築いていこうとしているという意味において、主イエスの言っておられる貪欲に陥っているのです。
つまり自分の取り分がなければ私の世界は成り立たない。
これがまかり通るなら世の中に正義なんてどこにあるんだぐらいに思っているのです。
そして分けようとしない兄は憎しみの対象となるわけです。
神様は私たちが互いに「愛し合う」ために、用い利用する「もの」を与えて下さっています。
しかし、「貪欲」がはびこると「もの」を愛するために、「ひと」を用い、利用するということになるのです。
そういう意味において私たちは誰もが皆、貪欲に陥っていると言わなければならないでしょう。
私たちは、自分の分を超えて人のものまで欲しがったり、奪い取ったりはしていないかもしれませんが、しかし自分が何を持っているかによって人生が決定づけられると思っています。
あれを持っていないから自分の人生はダメなんだ。
変えようのないことなんかそうです。
自分のからだのこと、親のこと。
そういう意味において自分が持っている広い意味での財産に依り頼んで人生を築こうとしています。
主イエスはそれを、「貪欲」と呼んでおられるのです。
あなたの心はそういう貪欲に支配されているのではないのですかと主イエスは私たち一人一人にも問いかけておられるのです。
そして主イエスは一つのたとえ話を語られました。
従来の倉を取り壊してより大きな倉を建てなければならないほどの有り余る作物を得た金持ちの話です。
作物を全部しまいこんだ彼は自分自身に「たましいよ。
これから先何年分もいっぱい物がためられた。
さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(19節)と言いました。
しかし神様は彼に「愚か者。
おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。
そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(20節)とおっしゃったのです。
この話は、すぐ前の「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」という教えを具体化したものです。
今日の聖書朗読の詩篇39篇5、6節にこうあります。
「ご覧ください。あなたは私の日を手幅ほどにされました。
私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。
まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。
まことに、人は幻のように歩き回り、まことに、彼らはむなしく立ち騒ぎます。
人は、積みたくわえるが、だれがそれを集めるのかを知りません。」
人生の空しさ、はかなさを歌うこの詩篇と同じ響きが、このたとえ話にも流れているのが感じられるのではないでしょうか。
神様はこの金持ちのことを「愚か者」と言っておられますが、彼のどこが愚かだったのでしょうか。
彼は何か悪いこと、ひどいことをして豊かになったわけではありません。
畑が豊作になったから、それを全部しまい込める倉を作ったのです。
むしろ、収穫をむだにしないで利益を得たという商才のある人と見ることも出来ます。
彼が愚かだったのは、自分が得たもの、蓄えたものによって命を得ることができる、生きることができると思ったことなのです。
自分が成し遂げたこと、持っているものによって人生が決まる、人生安泰と思ったことです。
つまり、貪欲に陥ったということです。
ですから賢い者となって生きるとは、この貪欲から解放されるということです。
どうしたら、賢い者として生きられるようになるのでしょうか。
それは、私たちの人生を本当に決定づけるものが何であるかを知ることによってです。
私たちの人生を本当に決定づけるもの、それは、私たちのものとして蓄えられる何かではなくて、私たちにいのちを与え、人生を導き、そしてそれを終わらせられるのは神様であること知るということです。
主イエスはこのたとえ話で、私たちの目を、私たちにいのちを与え、人生を導き、そしてそれを終わらせられる神様へと向けさせようとしておられます。
「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」20節という言葉にそれが表れています。
彼はいのちを失うのではなくて、取り上げられるのです。
死について同じ言い方ですが大きな違いがあります。
いのちを失うとは私が持っているものを無くしてしまうことですが取り去られるとは、彼からいのちを取り上げる方がおられることを示しています。
つまり私たちのいのちは、神様によって与えられ、生かされているものであるということです。
この金持ちはそのことを見つめていなかったのです。
彼は、自分の命、人生が、神様によって与えられ、導かれ、そして時が来たら取り去られることを本気で考えていなかったのです。
人生を決めるのは神様との関係ではなくて、自分が得たもの、蓄えたものだと思っていたのです。
つまり神様を抜きにして自分が自分の人生の計画を立てられると思ったのです。
それが彼の愚かさであり、貪欲だったのです。
実はこの短い話の間に「私の」ということばが幾つも出てきます。
私の作物、私の倉、私の穀物と財産、そして自分の魂をも、自分が左右できる自分のものと言うのです。
ほんとうにそうでしょうか?
私たちは、明日の朝生きているかどうかを誰も知りません。
ですから、「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」というお言葉は、私たち皆に対して語られています。
しかしそのことばをどう聞くかは、信仰のあるなしによって天と地ほども違うのです。
天の父なる神様が人生の主であられることを知らず、この神様との関係を持たずに生きている者にとっては、これは恐ろしい言葉、人生の空しさを思わせる言葉でしょう。
しかし、私たちを本当に愛して下さっている父なる神様を知っている者は、この言葉を恐れずに聞くことができます。
神の本当の愛を私たちは、主イエス・キリストのご生涯全体を通して、とりわけ十字架の死と復活によって知らされています。
主イエス・キリストの十字架の死と復活における神様の父としての愛を見つめている私たちは、たとえ今夜、自分のいのちが取り上げられるとしても、父なる神様の愛、恵みが自分をしっかりと捕えていること、そして肉体の死の彼方になお神様の恵みによる復活と永遠の命が約束されていることを信じることができるのです。
本日の箇所の最後の21節に「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」とあります。
神の前に富むとはどういうことでしょうか。
私たちはこれをともすれば、神様に喜ばれるようなよい行いに励み、何かポイントを天国に貯めていくようなものと理解しがちです。
しかし「神の前に」とは「神の中へと」「神に向かって」ということで神様との関係が意識された言葉です。
「自分のためにたくわえる」というのも、「自分自身に向かって」という言葉です。
自分にとって益となるか、自分のために意味があるか、結局四六時中、思いが自分に捕らわれて生きることそれが自分のためにたくわえることであり、貪欲ということです。
本当に必要なのは、神の前に富むこと、つまり神様との関係における豊かさをこそ求めることなのです。
そしてその豊かさは、私たちの良い行いによって得られるものではなく神様が、主イエス・キリストによって与えて下さる恵みの豊かさによって与えられるものなのです。
聖書に非常に多く出てくることばの一つは「恵み」です。
聖書のいう恵みはカリスと言い、すべて神から与えられたものです。
この大自然も、私たちのからだもいのちも、すべて与えられたものなのです。
そして私たちにたいする神の愛は御子イエス・キリストの十字架と復活によって全き罪の赦しと永遠のいのちとして与えられました。
神の前に豊かになるとは、主イエス・キリストによって、その十字架と復活によって与えられた神様の救いの恵みを信じ、それにあずかって生きることです。
そこに、貪欲から解放された新しい生き方が生まれていきます。
私たちの目指すのは「神の前に富む者」すなわち神の恵みの中で活かされていることに気づき、主イエスによって自分の生活を変えられ、神への信仰が強められてゆく者となってゆくということです。
どうかこの週も自分のために富を積むように生きるのではなく、父なる神様の恵みによって豊かにされて生きることを祈り求め、歩んでまいりましょう。
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