教会は建物ではなくキリストを信じる者の集まりです。
ですからキリストのからだなる教会とはキリストを信じる者同士のつながりにあるとも言えます。
究極的には建物が無くても教会は存在します。
しかしまたクリスチャンの信仰が教会を建て上げることに反映されることも事実です。
福音が語られ、信じる人が起こされ、教会の活動が拡がるに連れて、一定の場所で、礼拝を始め、活動を進めやすい場所なり建物を願うのは当然のことだと思います。
私たちの教会もこの新会堂のために先ずは土地を取得することに取りかかったのが30年前、土地を取得したのが翌年1991年のことです。
20年前にもう半分の国道側の土地を入手いたしました。
そして10年前に新会堂建設の計画がなされ、2011年6月5日の起工式をもって工事が始まりました。
そして翌年2012年3月に竣工となりました。
土地、会堂建設、駐車場整備等合わせると約3億円がかかっています。
その中の銀行の借り入れの返済は今も続いていましてあと3千万円と少しとなってきました。
30年前に計画が始まったわけですからその当時から捧げ続けて下さって今も教会の働きを支えて下さっている方もおられますがすでに召された方、私たちが知らないが当時教会に集ってくださった方々も教会建設のために多大な貢献をしてくださいました。
振り返りますと新会堂建設はそのビジョンを信仰を持って受け止め、取り組まれてきて完成に至ったわけですが、逆に新会堂建設が教会の、私たちの信仰生活を整え、信仰をもって歩むことの恵みと祝福を私たちにもたらしてくれたと言えるのではないでしょうか? 私が今日、最初にこのようなことをお話させていただいた理由ですが、今、新型コロナウイルス感染の危険性を減らすために社会でそうなされているように、教会でも様々な取り組みをしております。
このライブネット礼拝もそうです。
以前のような教会での活動は今、控えられております。
現代はインターネットという便利なものがありますのでネット礼拝で礼拝が出来るわけです。
しかし、便利なものに慣れるといつの間にか大切なものが失われていることに気づきにくくなっているかもしれないとも思うのです。
今日はそのあたり、旧約のハガイ書から学び、主のみことばを通しての主のみ心を知りたいと願わされるのです。
先ず今日の箇所の背景を少し話しておきたいと思います。
エルサレムのあるユダ王国は紀元前586年にバビロニア帝国に滅ぼされ、ユダの多くの民はバビロニアに捕虜つまり奴隷のような状態で連れてゆかれました。
これがバビロン捕囚と呼ばれるものです。
そして何十年と時間が経つ間に連れていかれたユダヤ人はその地に馴染み、また勤勉で能力があったのでバビロンの地で十分生活できるようになっていたのです。
ところがある時、ネヘミヤというユダヤ人がエルサレムの神殿と町が廃墟と化していることを知らされ大きなショックを受けます。
同じ時期エズラという人もそれを知り、神殿、神の宮を再建する必要を強く感じるのです。
そのためにどういうわけか、と言っても神様のみ心だったわけですが、エズラはペルシャの王クロスの協力を得ます。
当時バビロニア帝国はペルシャ帝国に代わっていました。
つまり異教の国王が支援してくれたのです。
その支援のほどがエズラ記1:2〜4に出ています。
「ペルシヤの王クロスは言う。
『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。
この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。
あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。
その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。
この方はエルサレムにおられる神である。
残る者はみな、その者を援助するようにせよ。
どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」
クロス王の心を主なる神様が震い立たせたと書いてありますので神様は未信者の方をも用いて事を成し遂げてくださるのです。
またネヘミヤも自分が仕えていたアルタシャスタ王があまりにもネヘミヤが暗い顔をしているので声をかけてくれ、ネヘミヤが事情を話すと「いつ戻っても良いから」と休暇をくれたというのです。
そうやってバビロンに捕虜となって連れていかれたユダヤの人々は、エルサレムに帰り、主の宮の再建にとりかかりました。
最初その工事は順調に進み、短い期間に基礎が据えられました。
人々は主を賛美し、主に感謝し、互いに喜び合いました。
ところが、前々からエルサレム周辺に住んでいた人々はユダヤの人々の帰還を好まず、神殿の再建工事をあの手この手を使って妨害したというのです。
そのために神殿工事はおよそ15年ほど中断することになりました。
工事が中断されていた15年の間、1節にありますユダの総督ゼルバベルは様々に手を尽くし、工事を再開しようとしました。
けれども、その状況を打開することは出来ませんでした。
そうした間に、人々は最初に持っていた情熱を失くし、あきらめの気持ちを持つようになったのです。
そして多くのユダヤ人は「今はまだ時ではない。
まずは自分たちの生活を安定させよう。
神殿の工事の再開はそれからでもいいのではないか」と考えるようになったのです。
確かに神殿の再建はまわりの人々によって妨害されました。
多くの困難が起こりました。
しかし、それを一番妨げていたのは、じつは、神の民自身の不信仰であることを主なる神様ご自身が知っておられたのです。
信仰を失くしてしまったら、どんなによい条件が揃っていても物事をやりとげることができなくなります。
それで、主は、人々の信仰を励ますため、預言者ハガイを通して、人々に語りかけてくださったのです。
その語りかけを記録したのが、「ハガイ書」という預言書です。
ハガイ1:1〜11にある最初の預言は、人々に悔い改めを迫るものでした。
人々は「まずは自分たちの生活を安定させよう」と考え、それを第一にしましたが、結果は、みじめなものでした。
頑張っても、頑張っただけの報いが帰ってこなかったのです。
「多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。
かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ」(ハガイ1:6)「あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。
あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。」(同1:9)と主は言われました。
ことわざに「骨折り損のくたびれ儲け」というのがありますが、人々の生活はそのようだったのです。
なぜそんなことになったのでしょうか。
主は言われます。
「それはなぜか。
──万軍の主の御告げ。
──それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。
あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。」(同1:9)
物事は人間の努力だけで達成できるものではありません。
私たちの努力は、その上に神の祝福があってはじめて実を結ぶのです。
人々は、主の宮のことを後回しにしたため、その祝福を失っていたのです。
ハガイ1:4に「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか」(同1:4)とあります。
エルサレムの住宅はたいていは石造りで、材木の少ないこの地方では、「板張りの家」は贅沢なものでした。
日本では逆になりますよね。
人々は、材木を自分の家のためには材木を使っても、主の宮のために調達しようとしなかったのです。
それで、主は言われました。
「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。
そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」(同1:8)この言葉の通り、誰であっても、神のことを第一にするとき、その人の生活に祝福がくだります。
それは、この時代ばかりでなく、現代も同じです。
これは何も贅沢するなということではなく祝福の源なる神様、主イエス・キリストを脇に置いておいて神様の祝福が与えられるということはないのだということです。
人々は、この言葉を聞いて悔い改めました。
「悔い改める」とは、方向転換することです。
間違った方向に向かっていることを認め、正しい方向に舵を切ることです。
人々は、自分たちのことだけに目を向けるようになっていましたが、神の宮のことに目を向けるようになりました。
妨害や困難だけを見ていましたが、「宮を建てよ」と命じ、そのために力を与えてくださる主なる神を見上げるようになりました。
また彼らが悔い改めに至ったのは自分の現状を良く見たからです。
5節に、そして7節にも「今、万軍の主はこう仰せられる。
あなたがたの現状をよく考えよ。」困難や試練に出会う時に私たちはそれを他人のせいに責任転嫁しようとしたり、逆に自分自身を必要以上に責め立てたりしがちです。
しかし、本当の問題はどこにあるのでしょうか?主なる神は「それは全ての祝福と栄光の源なる私を第一とし、私を見ていないからではないのか」と問われるのです。
そしてその通りだと示された者がすることは主の前に悔い改め、主の憐みを願って、主を崇め、主に自分自身を捧げてゆくことなのです。
その結果、主は民の心を奮い立たせ、「彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった」(同1:14)というのです。
聖書に「奮い立つ」あるいは「奮い立たせる」という言葉は40回ほど使われていますが、それは、神が人の霊に働きかけ、勇気や力を与えてくださることを意味しています。
「彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った」(同1:12)とあるように、人々は神の言葉に聞き従うことによって、聖霊の力を受けたのです。
また、「民は主の前で恐れた」(同1:12)とあるように、主を恐れることによって、妨害や困難をも恐れず、「仕事に取りかか」ることができたのです。
私たちが物事をやり遂げることができないのは、たいていの場合、「本当に大丈夫なんだろうか。
うまくいかなかったらどうしょうか」などという恐れに捕まえられ、そこから先に進もうとしないからです。
同じところで足踏みしていても前に進むことはできません。
信仰のことではとくにそうです。
神の言葉によって、また、神の言葉とともに働いてくださる聖霊に心を奮い立たせられて、一歩を踏み出そうではありませんか。
エズラ記には、このように神殿工事が再開されたことが書かれています。
そしてこれを見たまわりの地域の総督や知事たち、つまり良く思っていない連中は早速、ダリヨス王に訴えを起こし「ユダヤの民は、クロス王の命令によって神殿を再建していると言っていますが、ほんとうにクロス王からの命令があったかどうか、お調べください」と書き送りました(エズラ5:17)。
つまり妨害しようとしたのです。
反対者たちは、クロス王の勅令など見つかるはずがないと思っていたのです。
ところが、ダリヨス王が記録を調べさせたところ、神殿再建についてのクロス王の命令が見つかったのです。
そこで、ダリヨス王は、ユダヤの人々を訴えた総督や知事たちに、神殿再建の費用を負担し、貢物を出すようにと命じました。
さらに、その命令に背くものは死刑にするという罰則までも定めたのです。
ユダヤの人々を訴え出た人々には、それが「やぶへび」になったのです。
ユダヤの人々は、政治的な働きかけによってではなく、ただ神に信頼し、神の言葉に従って「仕事にとりかかり」ました。
神は、その信仰に報いて、異教のダリヨス王の心を動かし、万事を益にしてくださったのです。
このようにして、神殿は、工事の再開から五年目に完成しました。
この神殿の再建には、総督ゼルバベル、大祭司ヨシュア、預言者ハガイとゼカリヤ、クロス王やダリヨス王、そしてペルシャから帰ってきた五万人の人々など、大勢の人が関わっています。
しかし、それらの人々を動かし、王たちを導き、預言者に言葉を与えたのは神です。
この神が命じられるとき、物事はその言葉のとおりに実現していくのです。
イザヤ55:10-11にこうあります。
「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。
必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」
神はイスラエルの人々を励まし、その信仰に報いて、神殿を再建させてくださいました。
神殿再建を通して人々の信仰が正され、強められたとも言えます。
同じ神が、今も、私たちに、力ある言葉で語りかけておられます。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志をたてさせ、事を行わせてくださるのです。」ピリピ2:13あなたが今、信仰をもって受け止めてゆくべきことは何でしょうか?また信仰を持って始めたことは、信仰を持って終わることを目指したいと願わされます。
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