「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。」。
これは有名で、多くのクリスチャンに親しまれているみことばです。
そして何よりもこのみ言葉は今年の蛍池聖書教会の指針聖句です。
このみことばをもって今年共に教会を建て上げてゆこうと思っておりましたが急なコロナ禍の影響でこの2か月間、教会の皆さんとゆっくりとお会いすることが出来ませんでした。
私自身は2020年はどのみ言葉が指針聖句となるのかと祈りながら示されたこのみことばです。
祈りの中で、示されたみことばがある。
その中で起こされたコロナ禍。
それぞれが別々の出来事ではなく、そこに神様のみこころがあることを覚えます。
そんな中、仕切り直しということではないのですがもう一度、このみことばに目を向け、これからの歩みのために主に心整えられたいと願います。
改めて、今日のみ言葉についてよく考えてみるならば、いや、別によく考えなくてもこの言葉を本当に真剣に受け止めようとするなら、これはものすごく厳しい言葉だということを誰でも感じるのではないでしょうか。
「いつも喜んでいなさい」?私たちはいったい、いつも喜んでいることなどできるでしょうか。
「絶えず祈りなさい」。
祈りが大切であり、神様から与えられている恵みなのだから、絶えず真剣に祈ることが必要だ、ということは信仰者なら誰でも分かっています。
しかし分かっていながらも絶えず祈ることはなんと難しいことか、というのが私たちの正直な思いなのではないでしょうか。
「どんなことにも感謝しなさい」。
「どんなことにも」です。
どんなつらいこと、苦しいこと、理不尽だと思うことがあっても、神様に感謝して生きる、それはなんと厳しい要求でしょうか。
ですから気分が良く、心落ち着いている時にはこのことばは励ましとなるでしょうが、厳しい現実の中を過ごす者にとってはこの言葉は、心に拒絶感を覚える、最も厳しく残酷な言葉だとも言えると思うのです。
ですからこのことばは本当のところ、何を神は読者に伝えようとされているのかを知る必要があります。
このことばが置かれている文脈の中で、つまりこの手紙の全体において語られている事柄の中にしっかりと位置づけて、パウロが言おうとしていることを正しく受け止めていく必要があると思います。
さてパウロはこの手紙の冒頭、1章2節においてこう言っています。
「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、」。
パウロは、「いつも神に感謝している」のです。
そのことは2章13節にも語られています。
そこには「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。」とあります。
このパウロの神様への感謝は、いずれも「あなたがた」、つまりテサロニケの教会の人々のことを覚えての感謝です。
テサロニケ教会のことを、パウロはいつも祈りにおいて神様に感謝しつつ思っているのです。
その感謝は当然喜びを生みます。
2章19、20節で彼は喜びを語っています。
「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。
あなたがたではありませんか。
あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。」。
テサロニケ教会の人々こそ、自分の喜びだと言っているのです。
3章9節にもそれが語られています。
「私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。」。
このようにパウロはこの手紙において、祈りにおける喜びと感謝を語ってきたのです。
彼はテサロニケ教会の人々のことを覚えて絶えず祈っており、その中で喜びと感謝に満たされているのです。
この喜びと感謝は、パウロの伝道によって誕生したテサロニケ教会が、順調に、うまく行っている、何の問題もなく歩んでいる、ということから来る喜びや感謝かと言うとそうではありません。
そもそもパウロがこのような手紙を書いているということは、彼は今テサロニケにいないということです。
せっかく福音の種が芽を出し、信仰者が生まれ、教会が誕生したのに、彼は間もなくテサロニケを去らなければならなかったのです。
そしてその後も、再三テサロニケを訪れたいと願い、その機会を求めてきました。
しかし今に至るまでそれは実現していません。
思い通りになっていないのです。
パウロはそのことを、「サタンが私たちを妨げました」と言っています。
神様に敵対する力が、伝道者パウロの働きを妨げているのです。
パウロの伝道活動はいつもそういう妨害や迫害によって妨げられ、人間の思いからすれば、決して順調にうまく行ってはいないのです。
また、テサロニケ教会の人々の現状も、決して問題のない、幸せな状況ではありません。
パウロがこの町にいられなくなったのは、ユダヤ人たちが彼らの信仰に反対して騒動を起したためです。
パウロが去った後残された教会の人々はそういう迫害に常にさらされているのです。
1章6節に、「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。」とあります。
教会の人々が置かれている状況も、苦しみの中にあるのです。
また、教会の人々の信仰に動揺が生じているということです。
主イエスの救いにあずかる信仰によって歩み出したけれども、その信仰を持っている者もやはり死んでしまう、という現実を見た時に、果してこの信仰は本当に救いを与えるものなのだろうか、という動揺が教会の中に起ってきたのです。
生まれて間もない教会であり、集っている人々も信者になって間もない人々なのですから当然のことですが、信仰の面でもそういう動揺や弱さをかかえていたのです。
そのような現実の中で、パウロは、この教会のことを常に祈りに覚え、喜び、感謝しているのです。
そして教会の人々に、自分のこの喜びと祈りと感謝に加わりなさいと語りかけているのです。
「私はあなたがたのことを覚えて、いつも喜んでいる。
絶えず祈っている。
そしてどんなことにも、どのような困難な状況や厳しい現実の中でも、感謝している。
あなたがたもその私と共にいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい」。
それが、この5章16節以下で彼が語っていることなのです。
何故パウロはこのようなことを言うのでしょうか。
それは、18節後半、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」、これが理由です。
神がそう望んでおられる、ここは直訳すれば、「それが神のご意志、みこころである」となります。
私たちが喜び、祈り、感謝して生きることを、神が望んでおられる、それは神のご意志である、だから、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するのです。
私たちの中に、喜ばしいことがあり、祈りたいことがあり、感謝すべきことがあるから、喜び、祈り、感謝するのではありません。
神が私たちにそれを望んでおられるから、それが神のご意志であるから、それに従って、私たちは喜び、祈り、感謝するのです。
言い換えるならば、この喜び、祈り、感謝の根拠は私たちの中にはないのです。
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。」というみ言葉を聞いて、自分の中にどんな喜びがあるか、祈り心があるか、感謝すべきことがあるか、と捜していくなら、この言葉は重荷となり、まことに厳しい、残酷な言葉になってしまいます。
私たちはこの言葉を読む時に、自分自身の中にある喜びや祈りや感謝を追い求めてはいけないのです。
そうではなくて、神様が私たちに対してどのようなみ心を抱いておられるのかを探り求めていかなければならないのです。
神様が私たちに望んでおられること、神様のご意志は、「キリスト・イエスにおいて」のご意志です。
私たちは、神様が私たちに望んでおられること、そのみ心を、主イエス・キリストを通して、主イエス・キリストにおいて見つめなければなりません。
それ以外のところで神様のみ心を探り求めることを、神様はそれこそ望んでおられないのです。
キリスト・イエスにおいて神様が私たちに望んでおられること、それは言うまでもなく、私たちが主イエスによる罪の赦しの恵みを受け、神様の民、神様が大切に愛し、育み、養って下さる神の子らの群れに加えられることです。
私たちをその救いにあずからせることをこそ、神様は望んでおられるのです。
神様はそのために独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。
そして主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。
独り子主イエスの死によって、私たちの罪を赦して下さること、それが神様のご意志です。
私たちの信仰とは、この神様のご意志が自分に向けられていると信じることです。
そしてこのご意志に従うことです。
神様が、独り子の命を犠牲にしてまで、この私を愛しておられる、その愛のご意志を信じて、それに従い、神様に愛されている自分であることを受け入れるのです。
この神様の愛のご意志は、私たちがどのような者であるかによって左右されることはありません。
私たちがどんなに深い罪を犯している者であっても、聖く正しい生活ができずに、汚れた思いと行いに陥ってしまっていても、そのような罪人のためにこそ独り子主イエスを遣わし、十字架の死による救いを与えて下さった神様のご意志は決して変わることはないのです。
また私たちがどのような苦しみや悲しみに陥っていても、自分を取り巻く状況が絶望的で、何の希望も持てないと思うことがあっても、それでも、独り子の十字架の苦しみと死とによって私たちを愛して下さる神様のご意志は決して揺らぐことはないのです。
あなたを愛しているからこそ、主は十字架につかれたのです。
十字架を見る時、残虐さを見るのではなく、あなたを愛する愛は本物であるという主イエス・キリストにおける神様のご意志があることを確認したいと思います。
ですから私たちは、いつも喜んでいることができるのです。
絶えず祈ることができるのです。
どんなことにも感謝することができるのです。
主イエス・キリストにおける神様の恵みのご意志は、私たちに罪の赦しの恵みを与えて下さることに留まりません。
主イエスは十字架にかかって死んで、そして復活されたのです。
父なる神様は主イエスに、死に勝利する復活の命を与えて下さったのです。
それは、主イエスの十字架による罪の赦しにあずかる私たちが、主イエスの復活にあずかる新しい命をも与えられるという希望の根拠です。
4章14節に「私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。
それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」とあるのはそのことです。
神様は私たちに、主イエスと同じ復活の命を与えて下さるのです。
主イエスにおける神様の愛のご意志は、私たちのこの人生、この世を生きている間だけのことではないのです。
私たちは、肉体の死の彼方において、なお神様の愛のご意志の中にあるのです。
愛する者の死においても、また自分自身の死においても、私たちは神様の愛のみ心の中にあるのです。
それゆえに私たちは、死に直面する時にも、喜んでいることができるのです。
祈ることができるのです。
感謝することができるのです。
神様の愛が、死に勝利し、復活のいのちとからだが与えられる、そのことは、主イエスの再臨において実現します。
復活し、天に昇り、父なる神の右に座しておられる主イエスが、まことの神としての力と権威をもって、この世の全てを裁く方として、いつかもう一度来られるのです。
その主イエスの再臨によって、この世は終わり、神の国が、つまり神様の主イエスによるご支配が実現、完成するのです。
私たちの復活は、この神様のご支配の完成において与えられます。
その時私たちは、4章17節の後半にあるように、「いつまでも主とともにいることに」なるのです。
永遠に独りぼっちということはないのです。
これが私たちの救いの完成です。
神様のご意志は、私たちをこの救いの完成にまで導き、与らせて下さることなのです。
私たちのこの地上における歩みには、様々な紆余曲折があるし、行き詰まったり、道を見失ったり、迷ってしまったりすることがあります。
けれどもそれは最終的には、神様の恵みのご意志によって、この救いの完成へと向かっているのです。
主イエス・キリストを信じる者には、この希望が与えられているのです。
それゆえにパウロは、どのような困難な状況の下でも、思うようにならない現実の中でも、いつも喜んでいることができるのです。
絶えず祈ることができるのです。
どんなことにも感謝することができるのです。
今までがそうであったように、これからも思っているように、願っているように生きてゆくことはむずかしいでしょう。
しかし、どんなことが起こされようと、どんなことに直面しようと、あなたを救いの完成の時まで導くことが主イエスのみこころ、ご意志です。
この私の歩みをみこころのうちにしっかりと最後まで導いてくださる主イエスに心を向け、喜び、祈り、感謝のうちに歩んでまいりましょう。
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