会堂管理者ヤイロの12歳になる女の子が死にかけていました。
ヤイロは仕事柄、人々の尊敬を集め、社会的にも地位の高い立場の人であったため、人に頭を下げて懇願するようなことはありませんでした。
その誇り高き会堂管理者ヤイロはなりふり構わないで、主イエスに嘆願したのです。
その時、主イエスはヤイロの信仰を見、答えて下さったのです。
主イエス・キリストは、距離を置いて外から評価、判定しようとしている者に対しては何もお語りになりません。
しかしみ前にひれ伏して救いを求める者の願いには応えて下さるのです。
ヤイロの家に向かう途中、「女の子」が死んでしまったことが知らされました。
その時、主イエスは、その話をそばで聞きつつ、ヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。
「そばで聞く」とは別の聖書訳では「聞き流して」と訳されたり「無視して」とあります。
私たちが聞き流したり、無視するのは嫌なことを聞いたり、直視出来ない時にそのようにします。
しかし、主イエスが「聞き流したり」「無視する」のは、少女の死を直視しつつ、その娘が眠っているがごとく、つまりそれはやがて眼を覚ますという我々にとって信じがたいことが何の問題も無く、当然のこととして起こされるという意味において、否定的な状況やことばを聞き流されるのです。
自ら、復活し、また人を復活させることの出来る神なる主イエスであるからこそ言えることなのです。
ヤイロが味わった苦しみ、絶望を私たちも覚える時があります。
そのヤイロは主イエスの足もとにひれ伏して救いを願いました。
私たちにも、そういう機会が与えられています。
それがこの主の日の礼拝です。
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