キリストとクリスチャンとの関係は、ヨハネの福音書の中に3章で「花婿と花嫁」、10章で「羊飼いと羊」、15章で「ぶどうの木とその枝」として描かれています。
どれも、キリストとクリスチャンとの親密な関係を表わしていますが、ヨハネの福音書には、もうひとつのたとえがあります。
キリストがクリスチャンの「友」であり、クリスチャンもまたキリストの「友」であるというものです。
ここで使われている「友」は、どんなことでも打ち明けることのできる「親友」という意味で使われています。
キリストもクリスチャンも、どちらも「友」ということはキリストと私たちとが対等に扱われているということです。
キリストの愛が対等の愛であるということは考えてみると驚くべきことと言えます。
今も昔も、親が子のために、子が親のために大きな犠牲を払う、夫が妻のために、妻が夫のために危険を犯してまで相手を守るということは良くあることで、そうした親子の愛や夫婦の愛は賞讃されるべきものです。
しかし、親子の愛や夫婦の愛には、血縁関係や肉親の強いきずなに基づいたもので、ある意味では狭いものです。
しかし、「友のために」という時には、血のつながりも何もない人のために、自分を犠牲にするわけですから、その愛は、純粋で、大きなものであるということができます。
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」ヨハネ15:13
血縁も地縁も、コネもツテも全くない、純粋な愛で、私たちのために命をささげてくださったのです。
これ以上の愛、これ以外の対等の愛がどこにあるでしょうか。
この愛によって私たちはキリストの友とされているのです。
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