主は、ここでは実際の飢餓というよりは、霊的、信仰的な飢餓について語っておられます。「義」の意味について社会正義、国の救いという意味がありますがここでは何よりも人が神の前に罪赦されて義とされるということが強調されています。
「義に飢え渇く」とは「自分自身の罪咎を知り、ますます自分の罪深さを知る」ということですがそれがどうして満ち足りることになるのでしょうか?
星野富弘さんの詩に「痛みを感じるのは/生きているから 悩みがあるのは/ 生きているから 傷つくのは/生きているから 私は今かなり生きているぞ」というものがあります。痛み、悩み、傷つくこと、どれも出来れば避けたい嫌なことです。しかし逆説的ですがそれを通して自分が生きていることを実感するのも確かなことです。同じように、罪の赦しの恵みを味わうことが出来るのは自らの罪深さや罪咎と向き合った人です。それは神学的に言うなら「義認」と「聖化」ということになるでしょう。
クリスチャンは救われている喜びを知り、キリストの名で呼ばれていることを誇りますし満ち足りた思いです。しかし、同時に、罪赦された罪人として神の前に出ます。「聖徒」でありながら「罪人」。「罪人」であるのに「聖徒」。「飢え渇い」ているのに「飽き足りて」おり、「飽き足りて」いるのに「飢え渇いている」、じつに不思議な存在です。しかし、そこに真実な信仰者の姿があるのです。
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