祝福のことばの最後の部分<平和と迫害>について学びたいと思います。
1.「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」
「平和」ということばはいつの時代でもどこの国であろうと人間が求め、最もあこがれに満ちた美しい言葉です。「平和」ということばは「一致する」もしくは「語る。話しかける」という意味のことばです。どちらにしても人が一致し、争わないで話が出来る関係ということですから理想的な人間関係ということになります。しかし「平和」を保つために微妙なバランスをとることは非常に難しいことです。しかも主イエスはその「平和」を創り出す者になりなさいとまでおっしゃるのです。人間にその力はありません。平和は「平和の君」なる神によってもたらされます。そして神を信じるキリスト者によってこそ平和がもたらされる可能性があります。神はそれを期待しておられます。
2.「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」世界でも、日本でもキリスト者が迫害されたことは歴史上、枚挙にいとまがありません。使徒の働きに出てくる初代教会、そしてパウロや使徒たちが通った道は迫害そのものでした。しかし現代は少なくとも私たちの日常においては迫害らしきものは皆無でしょう。では私たちはどのように生きるべきでしょうか?迫害を受けることを想定しながら日々緊張をもって生きるべきでしょうか?
「証し人」と「殉教者」は同じことばです。それは生きてきた人生がキリストを証ししてきたので死もキリストを証しすることになったということです。初代のキリスト者は殉教を目指して生きていたわけではないのです。何よりも今、置かれている場で主イエスを証しするために自分に何が出来るのか?それを考えることが先です。その先には天の御国が待っています。
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