<説教要約>
パウロはキリストの故に牢獄に入れられ、普通なら決して平然としてはいられない中にあって、諸教会またそこに集う兄姉を励まし慰めるような言葉を送っています。隣人を愛する者となっていたのです。どうしてそのようなことが出来たのでしょうか? それは彼は心の中に、深く静かな、消えることのない喜びを持っていたからです。心の中に喜びが無いなら隣人を愛することは非常に難しいことだと言えます。その喜びは神の愛が源となっています。どうしたらそのような喜びを持つことができるのでしょうか?
1.まず自分の価値を知ることです。最近は「自己肯定感」ということばが出てきていますがどんな自分であれば満足するかということです。多くの場合、能力や才能、有形無形の所有物によって優越感をもったりしますがそれらのものは私たちに平安に満ちた永続的な自己価値感を与えません。私の存在そのものを喜び愛してくださっている神の愛が必要なのです。
2.次に自分の人生の目的を明確に知っているということです。ごく身近なことでしたら私たちはそれなりに目的をもって生きています。しかし、深い意味での人生の目的は、私たちを造ってくださった神のもとに来るまでは分かりません。アウグスティヌスは「私たちのこころには、造り主である神でしか埋め合わせることおできない空白がある」と言いました。私たちはイエス・キリストによって魂の中心を、永遠の命で満たしていただく時はじめて、人生の意義と目的を見つけ出すことができるのです。
3.最後に人生において喜びは誰かに愛され、誰かを愛することの中にあります。神から受ける愛は分け与えて減ることはありません。愛を受けたいと思うなら、まず愛を与えることです。神はその愛を増し加えて下さいます。
<説教要約>
1月23日「隣人を愛する者となる」(ピリピ 2:16〜18)
パウロはキリストの故に牢獄に入れられ、普通なら決して平然としてはいられない中にあって、諸教会またそこに集う兄姉を励まし慰めるような言葉を送っています。隣人を愛する者となっていたのです。どうしてそのようなことが出来たのでしょうか? それは彼は心の中に、深く静かな、消えることのない喜びを持っていたからです。心の中に喜びが無いなら隣人を愛することは非常に難しいことだと言えます。その喜びは神の愛が源となっています。どうしたらそのような喜びを持つことができるのでしょうか?
1.まず自分の価値を知ることです。最近は「自己肯定感」ということばが出てきていますがどんな自分であれば満足するかということです。多くの場合、能力や才能、有形無形の所有物によって優越感をもったりしますがそれらのものは私たちに平安に満ちた永続的な自己価値感を与えません。私の存在そのものを喜び愛してくださっている神の愛が必要なのです。
2.次に自分の人生の目的を明確に知っているということです。ごく身近なことでしたら私たちはそれなりに目的をもって生きています。しかし、深い意味での人生の目的は、私たちを造ってくださった神のもとに来るまでは分かりません。アウグスティヌスは「私たちのこころには、造り主である神でしか埋め合わせることおできない空白がある」と言いました。私たちはイエス・キリストによって魂の中心を、永遠の命で満たしていただく時はじめて、人生の意義と目的を見つけ出すことができるのです。
3.最後に人生において喜びは誰かに愛され、誰かを愛することの中にあります。神から受ける愛は分け与えて減ることはありません。愛を受けたいと思うなら、まず愛を与えることです。神はその愛を増し加えて下さいます。
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