人は近い関係にある者同士、愛し合う場合もあれば、憎しみ合うような関係の場合もあります。
キリストの弟子たちがそうでした。
当然のことですが弟子たちはイエス・キリストがおられなかったら憎しみが増すばかりの集団であったことでしょう。
人はもともと「神のかたちに似せて造られました」。
神は愛ですから、本来神の愛に応答して生きる存在であったのです。
しかし、この人間にとって自然なことができないでいるという現実に置かれるようになりました。
聖書はそれを「罪」と呼んでいます。
人が神に背を向けるとき、人は愛を失います。
そして愛が失われるところに、愛と正反対の憎しみが生まれるのです。
主イエスが十字架で死なれたのは、わたしたちの罪の身代わりのためであり、深い神のみこころによるものですが、人間の側から見れば、主イエスもまた、憎しみによって死に追いやられました。
イエスを最も憎んだのは、こともあろうに、ユダヤの宗教家たちでした。
彼らはイエスが語ったことにことごとく反対しました。
イエスの教えが間違っていたからではありません。正しかったからです。
間違った者は正しい者を憎みます。偽物は本物を嫌います。
自分が間違っていること、自分が偽物であることが明らかになるからです。恥を見るからです。
「悪いことをする者は光を憎み、そのおこないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」ヨハネ3:20とある通りです。
イエス・キリストは十字架によって「神の愛のかたち」を取り戻して下さいました。
罪深い者がキリストによって神の愛を表す者へと変えられたのです。
この視点に常に立つ時に教会は神の家族、神様を天の父とする兄弟姉妹として愛し合う群れへと変えられてゆきます。
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