説教要約
主イエスは多くのたとえ話をされました。
その中でも今日の「種蒔きのたとえ」は特に有名な話です。
たとえ話とは日常的なことを用いて、大事な真理を人々に分からせ、悟らせる話法です。
しかし、この箇所ではイザヤ書を引用して真理を悟らせないためにたとえ話をすると言われるのです。
つまり主イエスのたとえ話は群衆にはたとえ話で終わり、弟子たちには神の国の奥義を示すものとなると言うのです。
これが主イエスがたとえ話をされる時の前提です。
種が落ちた4つの土壌が出てきます。
「道端」「岩の上の薄地」「茨の中」「良い地」です。
その解説も後で出てきます。
解説付きのたとえ話ならそれ以上何も説明は要らないのではないかと思います。
私たちはこのたとえ話を読む時、当然ですが、自分はこの4種類のケースの内のどれだろうかと考えます。
自分を「良い地」と見る人は先ずいないと思いますが後の解説から自分に欠けている点、弱い点など反省したり、改善点を見出そうとします。
つまり教訓的に読もうとするわけです。
それは心がけとしては悪くはないのですがその場合、前提となっているのは自分の努力や精進で「良い地」になることであり、そうならないと豊かな実を結ぶことはないという自分の信念、あるいは思い込みがそこにはあります。
主イエスがこのたとえ話で強調されているのは「実を結ぶか結ばないか」です。
その決め手となるのは種です。
実を結ぶ力も種にあります。その種を人間が造り出すことはできません。
信仰もそれと同じです。
信仰は、私たちの中にもともとその種があって、それを私たちが努力して育てていって実を結ばせるというものではありません。信仰が与えられている私達は「良い地」にいると主イエスは言われているのです。
これが神の国の奥義です。
種(みことば)の力を信じて歩み続けましょう。
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