説教要約
今日のルカの福音書には、失くしたものが見つかった喜びが、たとえ話の形で書かれています。
失われたものとは羊です。
羊は私たち人間の姿を表しています。
羊は羊飼いがいなければ生きてゆくことは出来ません。
それでいて迷いやすく、また自分勝手な行動を取ります。
人は、神の目から見れば「失われた者」なのですが、「失われた人」は、同時に「神を見失っている人」でもあるのです。
そのような自分勝手な羊を羊飼いである神は愛して下さっています。
100匹の羊の世話をしていた羊飼いは一匹迷子になったことを知り、捜しに出かけます。
迷子になった羊は1匹ですがそれは100分の1の羊ではありません。
当時は羊が何匹いようとそれぞれに名前がつけられていました。
羊飼いにしてみれば100匹のうち1匹がいなくなった、すなわち数えて99匹が帰り、1匹が帰っていないというのではなく、例えば名前がクロちゃんなら、他に取って代わることの出来ないクロちゃんがいなくなったということです。
ですから例え1匹がどこかで迷子になっているとしても、オンリーワンとしての1匹であり、帰った99匹の羊同等の価値に値するものだということです。
神様の愛は一人一人に注がれ、それはイエス・キリストが傷つき、十字架にかかり、いのちを捨てるほどまでの犠牲によって示されています。
このたとえ話は「喜び」で終わっています。
このたとえで最も強調されているのは、羊を見つけ出した羊飼いの喜びです。
「見つけ出された者の喜び」よりも、神が失われた人々を「見出した喜び」が描かれているのです。
羊飼いの払った犠牲の大きさや苦労話ではありません。
迷える一匹の羊を捜し出すためにどんなに大きな犠牲を払っても羊飼いがその羊を見出す、つまり神のもとに帰ってくることが神にとって大きな喜びなのです。
愛している者のためにはどのような苦労や犠牲も苦にはなりません。
神の私たち一人一人に向けられている愛は十字架の死という犠牲を払っても、人が神のもとに立ち返るなら大きな喜びとなるのです。
信じられないくらい大きく神に愛されていることを信じましょう!
私の目にはあなたは高価で尊い。
私はあなたを愛している。イザヤ43:4
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