説教要約
「神から生まれた者」(Ⅰヨハネ 3:7〜12)
前回は、「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを」考え、「神の子ども」とされている恵みを覚えました。
今日の箇所は、その神の子どもたちに向かって語られている言葉です。
1)悪魔のわざ・・人々を苦しめる悲惨な出来事や残虐な行為も「悪魔のわざ」です。
それは人を苦しめ、破滅させます。
人々を対立させ、孤独と孤立に陥らせて死へと追い込みます。
そしてその本質は、人の目を神から逸らし、人の思いを神から引き離すことにあります。
そうやって人を永遠のいのちから遠ざけてしまうのです。
罪を犯している者の背後には、この悪魔の働きがあります。
御子キリストが来られたのは、その「悪魔のわざ」を打ち破るためでした。
2)神の種・・それとは反対に、神から生まれた者には「神の種」が与えられています。
そして「神の種」によって罪を犯すことから守られます。
「神の種」とは、
①「みことば」Ⅰペテロ1:23では、人が新しく生まれるのは、朽ちない種である「神のことば」によるとされています。
②「聖霊」人は聖霊によって新しく生まれなければなりません(ヨハネ3:5)。
また御霊は愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制の実を結びます。
③「イエス・キリスト」イエス様は信じる者のうちにとどまってくださるお方です(ヨハネ15:4)。
私たちはぶどうの木であるイエス様に繋がっていなければ、実を結ぶことはできません。
④「いのち」「種」は「いのち」を含んでいます。
また①〜③に挙げたものは、聖書の中ではすべて「いのち」と関わりが深いものです。
主は、私たちが神のいのちに生きて、実を結ぶことを期待しておられます。
3)律法か、恵みか・・8節と9節の内容を別の言葉で言えば、「律法の下(もと)」に生きているか、「恵みの下(もと)」に生きているか(ローマ6:14)と表現することもできます。
神との平和を得た神の子どもたちは、もはや律法の下で罪に定められる関係ではなく、神との愛の交わりという恵みの下で生かされている存在です。
罪を犯しているかどうかによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりする(10節)とありますが、それは神を愛し、従う者かどうかという違いでもあります。
そして、神を愛する者は兄弟を愛する者です。
互いに愛し合うこと、それが私たちが初めから聞いている神の御心です(11節)。
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