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1月28日「教会が教会であるために」(コリント第二8:1〜7)


説教要約

今日の箇所は困窮したエルサレム教会支援のための募金がテーマです。

しかしパウロはこの募金活動が単なる経済的な支援を超えて教会の存在意義を示していることを教えようとしています。

それは募金、献金といった直接的に経済支援を表すことばは用いていないことからも分かります。

 

それでは教会とはどういう存在でしょうか? 

キリスト教会と他の団体とは何が違うのでしょうか? 

パウロは今日の箇所を通じて「教会とは共に神に仕え、共にキリストの豊かさを味わうところ」と言っています。

もう少し短く言うなら「奉仕によって十字架の恵みを知るところ」と言えます。

例としてマケドニアの諸教会のことが取り上げられます。

当時のマケドニアの諸教会の生活状況は「極度の貧しさ」の中にありました。

極度の貧しさですからエルサレム教会を助けてあげたいと思っても、彼らから拠出できるようなものは何も無い人が殆どであったのです。

しかし結果的にはそのような激しい試練の中にあっても満ちあふれる喜びはあふれ出ていたというのです。

 

彼らに満ちあふれる喜びを与えたのは誰でしょうか? 

それは主イエス・キリストです。

9節に「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。

それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」とあります。

どんなに私たちが試練や困難の中に置かれても、キリストを信じ、委ねるなら神は私たちを富む者としてくださるのです。

キリストを信じ、委ねるとはどのようにすることでしょうか? 

それは5節にあるように「自分自身を主に献げる」ことです。

同じ手紙の12:9に「わたし(キリスト)の力は弱さのうちに完全に現れる」、12:10「私が弱いときにこそ、私は強い。」とあり、私の弱さとキリストの豊かさはつながっていることが証しされています。

 

豊かな教会とはどのような教会のことを言うのでしょうか? 

人数が多く会堂施設等が充実していることでしょうか? 

経済を含め、あらゆる必要が満たされているということでしょうか? 

そうではなくマケドニアの諸教会のように厳しい状況の中に置かれても主キリストによって満ち溢れる神の恵みを体験しているかどうかにかかっているのです。

私たちにとっては「みことばが与えるいのちに教会はどれほど生きているのか」ということです。

  


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メッセージ内容(2024年1月28日)
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