説教要約
使徒の働き6章まではペンテコステの日に、聖霊が降って誕生した教会が、主イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝え、いろいろな妨害や迫害に遭っても、かえってそれによって確信を深められて伝道をしていったこと、その教会に多くの人々が加わっていき、またたく間に成長していったこと、そして教会は周囲の人々から尊敬を受け、好意を持たれていたということが語られています。
ところが6章に入ると、教会の中にある問題が起ってきたこと、もめ事が生じたことが語られています。
教会は、何の問題ももめ事も起らない天国のような所ではありません。
エルサレムに生まれた最初のキリスト教会からしてそうでした。
しかし使徒の働きにこのことが記されているのは大切なことを教えるためです。
その問題に良い対処がなされたので結果的には「こうして、神のことばはますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。」使徒 6:7となりました。
教会の中で起こったもめ事とは配給をめぐって、2つのグループ間にあったいざこざでした。
使徒たちはこの配給の問題にたいして7人の奉仕者を立てることによって、うまく対処してゆきました。
ただ聖書は新しく立てられた7人の奉仕者(執事)のほうが使徒たちよりうまく対応できたということではなく、どのようにすれば使徒たちがその本分である「みことばと祈り」の奉仕により集中出来るのか、そこに焦点が置かれています。
教会内で起こる問題解決のために効率の良い方法、誰からも文句が出ないやり方を思いつくことなどそれは悪いことではないのですが、次第にみ言葉への真剣な思いが失われ、み言葉に聞き従おうという姿勢がなくなってしまうなら、元も子も無くなってしまいます。
それは、どんなもめ事や対立にも優って、教会にとって致命的な危機となります。
何故なら、主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しの恵みを告げるみ言葉こそ、聖霊によって教会に与えられているいのちだからです。
このみ言葉に対する真剣な思いが失われてしまうならば、どんなに活発な活動がなされていても、そこには聖霊によるいのちはありません。
神のみ言葉が語られ、それが真剣に聞かれるということにこそ、教会のいのちがあるのです。
福音が伝わるということと自分の奉仕がそこに向けられていることを覚えたいと思います。
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