説教要約
今年の受難節は2月14日から始まりました。
受難節の最初の日を「灰の水曜日」と呼びますが聖書で「灰」は三つのものを表しています。
第一は「悔い改め」です。
ユダヤの人々にとって灰と悔い改めとは切っても切れない関係にありました。
イエスの宣教の第一声は「時が満ち、神の国が近づいた。
悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)です。
イエスは神の国の到来を告げ、その神の国に入る道を教えました。
その道とは「悔い改めて…信じなさい」と言われているように「悔い改め」と「信仰」です。
神の国には「悔い改め」という門をくぐらなければ入ることができないからです。
悔い改めとは、神に背を向けて神から去っていた者が、「向きを変えて」神に立ち返ることです。
しかも、いったん「向きを変えた」なら、そのまま、まっすぐ神に向かうことが大切です。
第二に、「灰」はへりくだりのしるしです。
創世記2:7に「神である主は大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
それで人は生きるものとなった」とあるように、人はもとは土のちりに過ぎないのです。
実際、人が死ねば、そのからだは灰となり、また土となるのです。
人のからだの元素も、土に含まれる元素も、変わりません。
人の生命や人格が尊く、その生涯に意味や目的があるのは、神によって生かされているからなのです。
私たちはそのことを思って神の前にへりくだることを学びたいと思います。
第三に「灰」はきよめのしるしです。
旧約の時代には重曹や灰は、からだや着物、調理器具や家具など、さまざまなものをきれいにするために使われていました。
しかし、灰は目に見えるものの表面をきれいにすることはできても、目に見えない人の内面をきよめることはできません。
イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血だけが人の内面を罪の汚れからきよめる力を持っています。
受難節で言われるところの「灰」とは、悔い改める者に与えられる、罪の赦し、また罪からのきよめのしるしでもあるのです。
後悔と悔い改めは違います。
「悔い改め」を通らないと、その人生は「後悔」しか残らないものになります。
悔い改める者には神にある将来があるのです。
この希望を見つめてレント(受難節)の時を過ごしてまいりましょう。
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