説教要約
1)イエス・キリストによる新しい時代を生きる
3:21の「しかし今や」は、「しかし今や、全てにおいて新しいことが始まっている」ということを語っています。それまで語られていたことは人間の罪とそれに対する神の怒りでした。イエス・キリストによって神の義が示されたことによって、罪の下にあり、神の怒りの下にある私たち人間の世界に、今や決定的に新しいことが始まり、新しい時代が来ているのです。
2)忘れてはならない罪の現実
イエス・キリストによって「神の義」が立てられ、罪赦され、救われ、新しい時代を生きていると言いつつも人間の醜悪な罪の現実が記されていると救われている喜びは湧いてこないのではないかという声があるかもしれません。しかしそれはこの書を記したパウロの意図するところではありません。どこまでも自己中心的な人間は罪が赦されていることの恵みに慣れて、ついには過去が消え去ったかのようにまで思い、罪の赦しなど必要がないとまで思ってしまいます。ある意味、それが人間の罪がもっている性質なのです。
3)神は恵みとまことをもって人間を見ておられる
神の前にある真実な人間の姿はどのようなものでしょうか?「神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられた」3:25のことばは私たちの真実な姿を言い表しています。すなわち私たちが意識しようとしまいと私たちの罪を神様はすべて知っておられるということと罪人である私たちが赦され、救われるということは本来ありえないことだということです。さらに罪に対する罰、すなわちさばきが無いなら神の義が成り立ちません。
4)神の与えた恵みは有り難い
神は、ご自分の義を、神の正義を打ち立てつつ、同時に罪ある私たちを赦し、義とし、救って下さるという驚くべきみ業を行って下さいました。その驚くべきみ業は、神の独り子主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって実現したのです。私たちは、神がご自身の独り子の命を犠牲にして下さったという、驚くべき、文字通り有り難い、あり得ないような恵みによって、罪を赦され、義とされて、新しく生きることができるのです。
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