説教要約
これらのことを話されると、多くの者が信じた
イエス様が、今朝のみことばをお語りになられたのは、イエス様のことを信じたユダヤ人たちに対してでした。
この時、イエス様が話されていたのは、ご自分が何者であるかということでした。
イエス様は、ご自分が『わたしはある』(24節、28節)であると、大胆にお語りになっていました。
『わたしはある』は、出エジプト記の3章で、神様がモーセに明かされた神様の聖なるお名前です。
このように自分が神と等しいと語ることは当時のユダヤ人にとっては、神を冒涜することでありありえないことでした。ユダヤ人指導者たちがイエス様を殺そうと考え始めたきっけとなっています(ヨハネ5:18)。
しかし、それにもかかわらず多くの人々がイエス様のこの言葉を信じました。
肉によってではなく、御霊によって知る
イエス様が『わたしはある』であると信じることは、言い換えれば「イエスは主です」と信じ告白することです。
それは、「聖霊によるのでなければだれも『イエスは主です』ということはできません」(Ⅰコリント12:3)とパウロも語っているように聖霊によらなければできないことです。
主イエスのみことばにとどまるというのは、日々の歩みにおいて、みことばを心にたくわえ、それに従い、みことばとともに生きていくことです。
そして、その際に大切なのが「イエスは主です」という信仰をもってみことばを受け取っていくということです。
聖霊の導きを祈りつつみことばを読むことが大切です。
真理を知り、自由にされる
「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」(ヨハネ16:13)とあるとおり、聖霊の働きは私たちを真理に導きます。
聖書が教える自由は、イエス様の十字架による罪からの解放だけではありません。
神に愛された神の子供として、神に近づくことが許されている積極的な自由をも含みます。
私たちに与えられた御霊によってみことばを受け取っていくときに、私たちの霊は新たにされ、この現実世界を生きていく力が、主からあたえられるのです。
神様の恵みは、いつも私たちとともにあります。
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