説教要約
聖書は、終わりの日に主イエスが再びこの地に現れる(再臨)と教えています。
今日の箇所で、ペテロは、
「彼(主イエス)の来臨の約束はどこにあるのか。…すべてが創造のはじめからのままではないか。」(3:4)
と嘲る者たちに騙されないように教え、さとしています。
そこには主のみこころがある
9節では、主は「約束を遅らせているのでなく、…あなたがたに対して忍耐しておられる」のだ、とペテロは語っています。
嘲る者たちは、どれだけ待っても再臨は来ないと批判しましたが、むしろ待っておられるのは主の方なのです。
主は、私たちへの愛ゆえに、私たちが悔い改めることを忍耐強く待ってくださっています。
主の日は必ずやって来る
10節は、原語のギリシャ語では「やって来ます」という動詞に強調点があります。
たとえ遅れているように見えても、主の日は必ずやって来るということです。
そのとき、天の万象が崩れ去るという壮大な出来事が、盗人のように、思いがけずやって来て、速やかに実現します。
到来を早める
12節の「到来を早めなければならない」は、マタイ24:14の「福音が全世界に宣べ伝えられて、それから終わりが来る」というみことばから、福音宣教に励むように勧めていると理解されることがあります。
しかし、ペテロがこの手紙の中で、信仰者に対して敬虔な生き方を勧めていることを考慮するなら、私たち自身が悔い改めに進むことも、また大切です。
私たち信仰者は、この世にありながらすでに御国の祝福を受ける者とされています。
その私たちが悔い改めて、より一層、主に立ち返ることは、ますます主を身近に覚え、さらに豊かな祝福をいただくことです。そのとき、主の到来は、終わりの日に先立って「早められ」て、私たちの内で実現していると言えるでしょう。
新天新地
しかし、主の来臨によってはじめて実現する約束もあります。
それは私たちの内面でなく、リアルな現実世界において実現する「新しい天と新しい地」です。
新天新地において神は私たちとともに住んでくださり、私たちは神と顔と顔を合わせ、主の栄光を仰ぎ見ることになります。
そこには、「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみも」ありません(黙示21:4)。
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